生は死をもって意味が生じる。ならば永久の命になんの意味があるのか。また、それを求める意義は何でしょう。

のぼ
部族の儀式やもてなしに絞められる家畜に、人は凄まじい抵抗を受けて強烈な生を感じると言われている。
それと同時に怖気付く。
「死んだら何もかもお終いだ」
『自分』を意識するのは孤立の始まり。
孤独は怖い。
何も遺せない。
何も託せない。
死んだら終わりだ。
錬金術は不老不死のために発展した。
その出資者は貴族や王達。
上に立つ者は孤独。
子と生活し教え、託す者は死はさほど怖くない。
自分は続く家系の一部であり、全てだから。
自分もまた親の一部、子も自分の一部。
そして、個々ではなく家系で全て。
自分の一部を叱りはしても痛めつけない。
皆が永遠の命を望む世界になったとしたら、
皆が孤独になったということ。

風の音
そんな俺からすると、一部の人たちが「永遠の命」を求める理由は「死や老いへの恐怖心」であり、意味としては“恐怖心を逃れられる”ことにあると思います。
「新しい仕事」「新しい先生」等、人は自分が経験したり知らない物事に対して「恐怖や不安」を本能的に感じます。死ぬことを知らない恐怖や不安を紛らわすために「死なない方法」を模索するのは自然な意義だと思います。
多くの宗教が“死後の世界”を謳うのは、死の恐怖や不安を持つ信者たちへの施し・安らぎであるように思います。

be
永久の命であることは永久に証明出来ないし。
比喩というか目標というか幻想というか

恵風
永久の命の意味は、恐らく生きているその時間の使い方、どんな行動をしてどんな言葉を後世に残したか?にあるのではと愚考します。
無為に時間を浪費するだけでは、何も生み出さずただ生き続けているという時間の歴史が残されるだけ。
生命活動の時間の中で人類にとって後世に役立つ事や言葉を先人の賢人や偉人達が残してくれた事で我々がそれ等を受け継ぎ人類は発展し生存してきました。
己の為だけでなく、家族や友人・他者に対して何かできるか?をすることで生きる意味が見出だせるのではないかと。
人は他者と関わることで己の存在意義を感じる社会的存在である以上は。
また、永久の命を求める意義の多くは、権力者や支配者が己の永続する力や権威の誇示、如何に己が優秀で讃えられるべき存在で偉業を成し遂げたか?を後世まで語り継がせないからではなかろうかと思われます。
私は永久の命などに興味はありませんけどねw

おしゃま
例えば、自分の人生が死後に一冊の本になるとしたら、様々な出来事が起こる波瀾万丈な章立ての物語か。一貫した思いや夢を語る長編作か。関わりの深い人達の目線も交えた群像劇か。
どれも素敵な本になるだろう。
その中に、枠物語という「物語の中に別の物語」が存在するものがある。
一冊の本にしかなれない、でもそれだけじゃ物足りない。
そんな人たちが思い付いたのは「永久の命があれば、幾つもの経験、時代、人、夢、歴史に触れられる。幾つもの偉業を成し遂げられる。幾つもの国や文化の中で生きられる。」のではなかろうか。
生は執筆中。死は出版。
だとしたら、決して完成しない誰も読む事のない壮大な物語の執筆ということ。
永久の命とは、ロマンである。

シフ
『永遠の命を持たない人(の人生)には意味があり』永遠の命を持つ人が『持たない人に影響を与えることができる』のであれば、持たない人の人生の意味を変えうる。それは意味でしょう。
この場合の対偶である『生は死がなければ意味が生じない』は『全ての生命に死がない場合』にしか成り立たないんじゃないかな。

K
永遠の命があれば、全言語の習得、全学問の極致、宇宙の果てへの到達など、「有限では不可能な達成」そのものが生の意味になります。
自分が変わるのではなく、移ろいゆく世界や文明を永遠に眺め続ける「目」としての存在。
歴史そのものと同化することに価値を見出す形です。
しかし、哲学者のバーナード・ウィリアムズが指摘したように、永遠の命は最終的に「耐えがたい退屈」に行き着くという説もあります。
すべてをやり尽くしたとき、死がないことは救いではなく、出口のない「停滞」に変わるのかもしれません。
なので、一瞬を生きる。刹那を噛み締める。その対にあるものが永久であって、ソレを人はたまたま求めてしまう弱さや、憧れなのかも。

バージル

ヲイナリ
生と死は時間と共に歩む事
不死はその流れに逆らう事
この意思決定のような定義がその個体に存在するなら不死の矜持を自分は理解できないかもしれないけど意味は存在するんだと思うよ

サトシ
アカデミックに語られるのは他の方に任せて、僕は思考実験として。
永遠の命に、どんな意味があるのか?
生と死が互いに密接に意味を持ち合っているのなら、死のない生には意味なんてないのかもしれないですね。
しかし僕は(論点がずれるけど)、
「永遠の命を持つ者の哲学」のほうにこそ興味があります。
死を思うことが生の哲学であるなら、死のない哲学とは一体どういうものなのか?
死を思わずに生を考えると、
徹頭徹尾「今」しか存在しなくなるのか?
それとも、今日と明日と昨日が永遠に引き延ばされたような人間が出来上がるのか?
はたまた、何も変わらず生活し続けるのか?
ファンタジー系のゲームや小説では、死を超越した者たちが人間を「定命の者」と呼ぶシーンがよくあります。
彼らは大抵、強大で、あるいは神として崇められていたりもする。
そういった作品のように、いつの日か我々が死を超越したとき、「定命の者たち」とは隔絶した「何か」になるのでしょうか?
さらに興味深いのは、一部の人間だけが「不死者」になった場合ですね。
そのとき彼らは、同じ人間であった我々のことを「定命の者」と呼ぶのでしょうか?
そして我々は彼らを、単なる「不死者」としてではなく、ゲームや小説のように上位の存在として感じるのでしょうか?
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