生は死をもって意味が生じる。ならば永久の命になんの意味があるのか。また、それを求める意義は何でしょう。

おしゃま
例えば、自分の人生が死後に一冊の本になるとしたら、様々な出来事が起こる波瀾万丈な章立ての物語か。一貫した思いや夢を語る長編作か。関わりの深い人達の目線も交えた群像劇か。
どれも素敵な本になるだろう。
その中に、枠物語という「物語の中に別の物語」が存在するものがある。
一冊の本にしかなれない、でもそれだけじゃ物足りない。
そんな人たちが思い付いたのは「永久の命があれば、幾つもの経験、時代、人、夢、歴史に触れられる。幾つもの偉業を成し遂げられる。幾つもの国や文化の中で生きられる。」のではなかろうか。
生は執筆中。死は出版。
だとしたら、決して完成しない誰も読む事のない壮大な物語の執筆ということ。
永久の命とは、ロマンである。

be
永久の命であることは永久に証明出来ないし。
比喩というか目標というか幻想というか

のぼ
部族の儀式やもてなしに絞められる家畜に、人は凄まじい抵抗を受けて強烈な生を感じると言われている。
それと同時に怖気付く。
「死んだら何もかもお終いだ」
『自分』を意識するのは孤立の始まり。
孤独は怖い。
何も遺せない。
何も託せない。
死んだら終わりだ。
錬金術は不老不死のために発展した。
その出資者は貴族や王達。
上に立つ者は孤独。
子と生活し教え、託す者は死はさほど怖くない。
自分は続く家系の一部であり、全てだから。
自分もまた親の一部、子も自分の一部。
そして、個々ではなく家系で全て。
自分の一部を叱りはしても痛めつけない。
皆が永遠の命を望む世界になったとしたら、
皆が孤独になったということ。

K
永遠の命があれば、全言語の習得、全学問の極致、宇宙の果てへの到達など、「有限では不可能な達成」そのものが生の意味になります。
自分が変わるのではなく、移ろいゆく世界や文明を永遠に眺め続ける「目」としての存在。
歴史そのものと同化することに価値を見出す形です。
しかし、哲学者のバーナード・ウィリアムズが指摘したように、永遠の命は最終的に「耐えがたい退屈」に行き着くという説もあります。
すべてをやり尽くしたとき、死がないことは救いではなく、出口のない「停滞」に変わるのかもしれません。
なので、一瞬を生きる。刹那を噛み締める。その対にあるものが永久であって、ソレを人はたまたま求めてしまう弱さや、憧れなのかも。

バージル

シズ
ハイデガーは、人は「死に向かう存在」だからこそ、自分の時間が有限であることを自覚し、主体的に生きるようになると考えました。もし無限に生きられるなら、「今やらなくてもいい」が延々と続いてしまい、選択や決断の重みが薄れる、というわけです。この意味では、死は生に輪郭や緊張感を与えていると言えます。
アリストテレスのように「生の充実(幸福・徳)」それ自体に価値があると考える立場もあります。この見方では、仮に死がなくても、知ること・愛すること・創造することにはそれ自体の意味がある。死は意味の“条件”ではなく、ただの制約にすぎないとも言えます。
「不死=無意味になる」とは必ずしも言えません。ただし、意味の性質はかなり変わる、というのが多くの議論の落としどころです。
有名なのが哲学者バーナード・ウィリアムズの議論です。彼は「もし人が不死なら、やがてあらゆることに飽きてしまい、退屈が支配する」と考えました。欲望は有限で、時間は無限だから、いつかはやることが尽きる。そうなると、生き続ける理由そのものが空洞化してしまう、という見方です。
これに対して反論もあります。
「人間は新しい欲望や関心を生み出し続ける存在だから、無限の時間があればむしろ無限に意味を作れる」という立場です。科学・芸術・人間関係など、どれも一生では足りないほど広がりがあるので、不死は「退屈」ではなく「可能性の拡張」だと考えるわけです。
不死でも意味を保つ方法を考える哲学者もいます。たとえば、
自分で期限やルールを設定する(擬似的な有限性)
記憶や環境が変化し続けることで“別の人生”のように生きる
他者との関係や社会的責任に意味を見出す
といった形です。
不死は人生を無意味にする“決定打”ではありませんが、今私たちが感じている意味の多く(緊張感・希少性・決断の重み)は弱まる可能性が高い。その代わり、意味は「選び続ける力」や「関心を更新し続ける力」に依存するようになる、という構図です。
有限だから濃い人生か、それとも無限の可能性を持つ人生か。この問いに対する直感は、その人がどこに「意味」を感じているかです。

カナ丸🐐
ティリル
生きていると時間経過によって死を迎えますけど、それが例えば「白」の反対が「黒」とか、「賛成」の反対が「反対」のようなきれいな対にはなってない気がしています。
だから「生は死をもって意味が生じる」という質問自体が僕は違うと感じます。
生は生であるというだけで自動的に、自分の意思とは無関係な場所から、強引に、意味が生じてしまうのだと思ってます。
当然「永久の命」にも本人の意思とは無関係な場所から意味が発生する。
そのように感じます。

ヲイナリ
生と死は時間と共に歩む事
不死はその流れに逆らう事
この意思決定のような定義がその個体に存在するなら不死の矜持を自分は理解できないかもしれないけど意味は存在するんだと思うよ

サトシ
アカデミックに語られるのは他の方に任せて、僕は思考実験として。
永遠の命に、どんな意味があるのか?
生と死が互いに密接に意味を持ち合っているのなら、死のない生には意味なんてないのかもしれないですね。
しかし僕は(論点がずれるけど)、
「永遠の命を持つ者の哲学」のほうにこそ興味があります。
死を思うことが生の哲学であるなら、死のない哲学とは一体どういうものなのか?
死を思わずに生を考えると、
徹頭徹尾「今」しか存在しなくなるのか?
それとも、今日と明日と昨日が永遠に引き延ばされたような人間が出来上がるのか?
はたまた、何も変わらず生活し続けるのか?
ファンタジー系のゲームや小説では、死を超越した者たちが人間を「定命の者」と呼ぶシーンがよくあります。
彼らは大抵、強大で、あるいは神として崇められていたりもする。
そういった作品のように、いつの日か我々が死を超越したとき、「定命の者たち」とは隔絶した「何か」になるのでしょうか?
さらに興味深いのは、一部の人間だけが「不死者」になった場合ですね。
そのとき彼らは、同じ人間であった我々のことを「定命の者」と呼ぶのでしょうか?
そして我々は彼らを、単なる「不死者」としてではなく、ゲームや小説のように上位の存在として感じるのでしょうか?
もっとみる 




