人間は不快を感じるが、自己が感じた不快が正当性を獲得するにはどのような条件が必要か?(本文参照)
不快の知覚と正当性の獲得を無条件に認めると、不快を感じやすい人や情動調整スキルが未熟な者がノイジーマイノリティーとなり、場や社会の秩序が低下する可能性がある。
不快の正当性獲得→ノイジーマイノリティーにならないための出力の調整という二段階で、社会における不快の処理を整理したい。
参考事例:
近所の騒音や隣家のベランダの喫煙、選挙期間中の街宣車、サイゼ論争、政治批判、教師・保育士批判、カスハラ・パワハラ、発達障害、煽り運転𝒆𝒕𝒄.

コーユー
不快の問題って、実は2つに分けて考える必要があると思います。
① 不快の知覚そのもの
これは主観なので、基本的には尊重されるべきものです。「そう感じた」は否定されません。
② その不快に基づいて何かを要求できるか
ここは別の話で、権利侵害の有無や程度、リスク、社会的なルールによって判断されます。
つまり、「不快を感じた」ことと「相手が責任を負うべき」ことはイコールではありません。
例えば、強い不快があっても権利侵害が小さければ大きな制限は正当化されませんし、逆に不快が小さくても損害やリスクが大きければ規制は必要になります。
この2つを混同すると、「不快を感じやすい人の声が強くなる=社会が不安定になる」という問題が起きやすくなります。
だからこそ、不快は尊重しつつも、最終的な判断は「どれだけ権利を侵害しているか」で見る。
この切り分けが大事だと思っています。

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第一に、再現可能性が求められる。同様の状況に置かれた他者も合理的に同種の不快を感じうることが示される場合、それは単なる個人的嗜好ではなく、状況に内在する問題として扱われる。
第二に、因果関係の明確化が必要である。不快の原因が特定され、それがどのような作用によって不快を生じさせているかが説明可能でなければならない。原因が曖昧なままでは、正当性は感情の強度に依存し、説得力を持たない。
第三に、影響範囲の外在化が必要である。当該の不快が個人の内部に閉じた問題ではなく、他者や環境に対しても何らかの影響を及ぼす場合、それは社会的に検討される対象となる。ここで初めて、不快は私的感覚から公共的論点へと移行する。
以上を踏まえると、不快の正当性とは「感じたこと」ではなく、「共有可能な構造として提示されたこと」によって成立する。
ただし、正当性の獲得と発話の適切性は同一ではない。正当化された不快であっても、その表出が文脈・強度・形式において調整されなければ、単なるノイズとして機能する可能性がある。したがって、社会的には、不快の正当化とその出力制御という二段階の処理が必要となる。

