人間は不快を感じるが、自己が感じた不快が正当性を獲得するにはどのような条件が必要か?(本文参照)
不快の知覚と正当性の獲得を無条件に認めると、不快を感じやすい人や情動調整スキルが未熟な者がノイジーマイノリティーとなり、場や社会の秩序が低下する可能性がある。
不快の正当性獲得→ノイジーマイノリティーにならないための出力の調整という二段階で、社会における不快の処理を整理したい。
参考事例:
近所の騒音や隣家のベランダの喫煙、選挙期間中の街宣車、サイゼ論争、政治批判、教師・保育士批判、カスハラ・パワハラ、発達障害、煽り運転𝒆𝒕𝒄.

パン

ぽろん
さかきみなと

バラタイン

カカ

🥔ことみ🐍
自らの不快感の根底が、世の中の正当性と結びつかないのであれば、正当であるかどうかを証明するのは難しい。

コーユー
不快の問題って、実は2つに分けて考える必要があると思います。
① 不快の知覚そのもの
これは主観なので、基本的には尊重されるべきものです。「そう感じた」は否定されません。
② その不快に基づいて何かを要求できるか
ここは別の話で、権利侵害の有無や程度、リスク、社会的なルールによって判断されます。
つまり、「不快を感じた」ことと「相手が責任を負うべき」ことはイコールではありません。
例えば、強い不快があっても権利侵害が小さければ大きな制限は正当化されませんし、逆に不快が小さくても損害やリスクが大きければ規制は必要になります。
この2つを混同すると、「不快を感じやすい人の声が強くなる=社会が不安定になる」という問題が起きやすくなります。
だからこそ、不快は尊重しつつも、最終的な判断は「どれだけ権利を侵害しているか」で見る。
この切り分けが大事だと思っています。

Mr.メランコリー
例えば音であれば「◯◯デジベル以上は騒音」。
クレームであれば「◯◯分以上は業務妨害」のように。

サト
まず一次感情としての不快感
これは出てしまうもの、正当も不当もないと思う
二次行動として出る場合はどう出力するか、出力するべきことなのかを自分に問うことだと思う
ある人曰くは
「言うべきことなのか言わないと気が済まないことなのか」
「何を言うかは知性、何を言わないかが品性」
ここからは個人的意見だけど
感情を出すこと自体は不当じゃないと思う
前述の考慮の上で出すなら
それがコミュニケーションだと思う

セナ
あまりに極端、あるいは答えが出てしまっているような
自称以外においてはその不快感を理解して支持する仲間がいることだと思う。
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