自分の人生において、桜を見られる回数や、親と共に食事をできる回数は限られているが、普段このことを自覚しないのはなぜだろうか?
さんゆう

み
だが哀れなことにその残り回数が分からないんだからなぁ
たれぱん
でも、普段から桜を見たり、親と食事をしていれば後悔は少ないかな。

カカ

サリンジャー

134ごう
あと、単純に回数とかあまり興味がないから!
僕は、次があるかどうか。今この瞬間が満たされているか。ただそれだけでいいと思ってます!

のりん
本当はなにが大事で生きる為にはなにが必要なのか思い出すとまた有難い=ありがとうを思い出せるかと。。。
haru

風の音
人は病気や怪我で不自由したり破産したり、親がなくなったり恋人と別れたり…と、なにかを失ったときに「それまで当然だったもの」の価値を認識し、それらが回復したら再び「当然」となりありがたみが薄れていきます。
過去にこうした経験が多い、深い人ほどそれらの記憶は消えることがなくなるので、徐々に「当然」への感謝が蓄積されます。
お題のかたは、そうした経験をしてきた方ではないでしょうか?
「当然が当然ではない」という認識が不足しているのは、今の生活がせわしなくて考える時間が不足し、空や相手の目よりもスマホを見ている時間が増えたからかなぁと思います[笑う]
ソラ
日常的な事などそれに比べたら比較にならない程の数を繰り返すんだろうし、
数が多いって事は何時でも修正できるって余裕が心に生まれるから、重要視する必要性が下がるんだよねきっと
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