自分の人生において、桜を見られる回数や、親と共に食事をできる回数は限られているが、普段このことを自覚しないのはなぜだろうか?

han

アールディ
幸せとは、死を忘れることです(しあわせ=しをわすれる)
逆に、不幸とは、死が頭から離れないことです
あと何回、桜を見ることが出来るか、いつまで生きていられるかなどと考えざるを得ない状況は、不幸な状況にある人です
例えば、重病で余命何年と宣告された人、お金がなく、あと何日しか食費がないなどの不幸な人は、死を忘れることができないのです

たつ
気づいた時には遅いんだけどね

じゃんく
楽しさよりも喪失感が上回ってしまうから
でも、ふとした時に有限性を思い出して
1回を深く受け取ることも大切ですね
限りあることを
・楽しむことも
・大切にすることも
どっちも必要なんだと思いますよ
ソマチッド
自覚していても
haru

紀文屋
そして意識や自覚というものは、今の自分にとって興味のあるものに向けられているからではないでしょうか。

ゆう(全愛者)
もし私たちが、刻一刻と迫る「終わり」を常に意識していたら、精神的な負荷が大きすぎて日常生活が送れなくなってしまいます。
恒常性(ホメオスタシス): 脳は、過度な不安や恐怖から心を守るために、ネガティブな真実を背景に追いやり、現状が続くという「錯覚」を作り出します。
死の不感症: 自分の死や大切な人の喪失をリアルに想像することは、生物としての生存意欲を削ぐ可能性があるため、脳が一種のフィルターをかけています。
2. 「線形的な時間観」の罠
私たちは時間を、過去から未来へ続く途切れない「線」として捉えがちです。
連続性のバイアス: 昨日まで続いていた日常は、明日も同じように続くと無意識に信じています。これを「正常性バイアス」と呼ぶこともあります。
イベントの抽象化: 「親との食事」を「回数」という具体的な数字ではなく、「日常の習慣」というパッケージとして処理しているため、残り回数が減っている実感が湧きません。
3. 可用性ヒューリスティック(思い込みの法則)
直近で起きたことや、簡単に想像できることを優先して信じる心理傾向です。
桜は「毎年春になれば咲くもの」という記憶が強烈なため、その「回数」がゼロになる瞬間よりも、来年の開花のイメージが先行してしまいます。
4. 哲学的視点:ハイデガーの「世人(ひと)」
ドイツの哲学者ハイデガーは、人間が死(有限性)から目を背け、日常の雑多な事柄に没頭している状態を「世人(だれでもない誰か)」として生きていると表現しました。
自分自身の終わりを直視するのは孤独で恐ろしい作業であるため、あえて「みんなと同じように明日があるふり」をして、気晴らしの中に逃げ込んでいるという考え方です。
「人生は短いのではない。我々がそれを短くしているのだ」
(セネカ『人生の短さについて』より)
普段自覚できないのは、ある意味で**「今日を健やかに生きるための防衛本能」**とも言えます。しかし、ふとした瞬間にこの有限性に気づくことは、今の時間を「単なる日常」から「かけがえのない瞬間」へと変えるための、大切なギフトなのかもしれません。
この問いをきっかけに、次に桜を見るときや親御さんと食事をする時、その時間の「解像度」が少しだけ上がる。それこそがこの疑問を持つことの意義ではないでしょうか

のりん
本当はなにが大事で生きる為にはなにが必要なのか思い出すとまた有難い=ありがとうを思い出せるかと。。。

風の音
人は病気や怪我で不自由したり破産したり、親がなくなったり恋人と別れたり…と、なにかを失ったときに「それまで当然だったもの」の価値を認識し、それらが回復したら再び「当然」となりありがたみが薄れていきます。
過去にこうした経験が多い、深い人ほどそれらの記憶は消えることがなくなるので、徐々に「当然」への感謝が蓄積されます。
お題のかたは、そうした経験をしてきた方ではないでしょうか?
「当然が当然ではない」という認識が不足しているのは、今の生活がせわしなくて考える時間が不足し、空や相手の目よりもスマホを見ている時間が増えたからかなぁと思います[笑う]
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