「理解」とは、相手に近づくことなのか。それとも、自分の枠に当てはめることなのか。
あるいは、
その区別自体が、成立していないのだろうか。
私たちは、本当に「他者」を理解しているのだろうか。

しん
私たちは他者を、自分の持つ言葉や経験を通してしか理解できません。そういう意味では、理解には常に「自分の枠へ当てはめる」という側面があります。しかし、もし他者を完全に理解したと思った瞬間、私たちは相手の中にあった、自分には届かない部分を消してしまうのではないでしょうか。
どれほど親しい相手でも、その人が見ている景色や抱えている痛みそのものには入り込めません。他者には、最後まで理解へ収まりきらない部分が残り続けます。
だから私たちに可能なのは、他者を完全に理解することではなく、理解しようとし続けることなのだと思います。わかりきらなさを無理に消そうとせず、それでもなお相手へ向かい続けること。理解できなかった部分を含めて、それでも言葉を渡そうとすること。
理解とは、相手との距離を消すことではなく、最後まで埋まりきらない隔たりを抱えたまま、なお関わり続けることなのかもしれません。

ワシじゃよ、猛禽猛禽

くちく
柄谷に従うかどうかはさておき、「相手」(他人)を本当に理解するときには、多少の痛みを負う覚悟は必要なのではないでしょうか。
そんな覚悟も要らずに、自分の参照枠に括れてしまう「相手」は(好悪はおいても)すでに理解可能なものなのであり、それが仮に第三者から見れば、「理解できているつもり」であっても、十分近づけているのです。
まとめると、本当に理解できない相手に対してはラディカルなアプローチが必要だけど、レッテルを貼れるような相手には十分近づけているよね、という話です。

コパ🔍

ラズー
🪽天使Stella
『理解』と言う言葉が用いられてます
『理解』という営みは、単に「知っている」という状態を超えた、非常にダイナミックな心のプロセスです。
一言で言えば、理解とは**「点と点がつながり、自分なりの地図(構造)が出来上がること」**だと言えます。
1. ネットワークの構築(接続)
新しい情報は、それ単体では意味を持ちません。
• 既存の知識との結合: 自分の持っている知識(既知)と、新しい情報(未知)が結びついたとき、「あぁ、そういうことか!」という納得感が生まれます。
• 文脈の把握: その事象が「なぜ」「どのように」そこに存在するのか、背景や因果関係が見えた状態です。

natuski

ほくと

takeshi
ガク
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