「理解」とは、相手に近づくことなのか。それとも、自分の枠に当てはめることなのか。
あるいは、
その区別自体が、成立していないのだろうか。
私たちは、本当に「他者」を理解しているのだろうか。

しん
私たちは他者を、自分の持つ言葉や経験を通してしか理解できません。そういう意味では、理解には常に「自分の枠へ当てはめる」という側面があります。しかし、もし他者を完全に理解したと思った瞬間、私たちは相手の中にあった、自分には届かない部分を消してしまうのではないでしょうか。
どれほど親しい相手でも、その人が見ている景色や抱えている痛みそのものには入り込めません。他者には、最後まで理解へ収まりきらない部分が残り続けます。
だから私たちに可能なのは、他者を完全に理解することではなく、理解しようとし続けることなのだと思います。わかりきらなさを無理に消そうとせず、それでもなお相手へ向かい続けること。理解できなかった部分を含めて、それでも言葉を渡そうとすること。
理解とは、相手との距離を消すことではなく、最後まで埋まりきらない隔たりを抱えたまま、なお関わり続けることなのかもしれません。
だるま落とし
寄り添う事は出来ても理解できる事なんてそんな無いよ。

風の音
ある意味、生い立ちや功績、信条なども知らない仕事仲間よりも、会ったこともない有名人のほうが「理解」は深まると思います。
この例で言えば、お題の“近づくこと”とは「興味・好奇心・好き嫌い」等のきっかけで、「枠にあてはめる」にも書いてある情報以上はあてはめられません。
では、仕事仲間や好きな人のことをもっと理解するにはどうしたらいいでしょう?
ウィキペディアで調べる?それとも想像や妄想を膨らます?
大半の人は、よく相手を観て、話を聞き、なすことを知り…一つ一つのピースを組み上げてその人の姿を形作って行くと思います(1つのピースで全部崩すこともありますけどね[にこやか])
それらの行為は、広義的には“近づく”行為と言えますし、完全には組み立てられないことを理解しつつ、その人のピースを組み上げていくことは“枠にあてはめる”行為と言えます。
お題への俺の回答は「両方」です
🪽天使Stella
『理解』と言う言葉が用いられてます
『理解』という営みは、単に「知っている」という状態を超えた、非常にダイナミックな心のプロセスです。
一言で言えば、理解とは**「点と点がつながり、自分なりの地図(構造)が出来上がること」**だと言えます。
1. ネットワークの構築(接続)
新しい情報は、それ単体では意味を持ちません。
• 既存の知識との結合: 自分の持っている知識(既知)と、新しい情報(未知)が結びついたとき、「あぁ、そういうことか!」という納得感が生まれます。
• 文脈の把握: その事象が「なぜ」「どのように」そこに存在するのか、背景や因果関係が見えた状態です。
ノクスト

ほくと

春蕾

🍜

ジゴロ❤️🩹🥺

正宗地道的雪王
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