「傷ついた」という感覚は、事実なのでしょうか。それとも解釈なのでしょうか。
たとえば同じ言葉を言われても、気にならないときもあれば、強く引っかかるときもある。
相手は同じでも、自分の状態や関係性によって
受け取り方が変わることもあると思います。
だとすると、
傷ついたという感覚は、出来事そのものに含まれているのか、それとも自分の中で意味づけされたものなのか。
その違いは、どこで生まれていると思いますか?

魔将軍ザンニン
同じことを言われても"おいしい!"と思う人はいるわけですから。

おさかな
傷ついたと受け取り手の自分が解釈をして
自分の事実として傷ついたという事にならだろうか
何も解釈と事実が共存できないわけではない

冬寂

ナタデココ
自分の考えだけど、「傷ついた」っていう思いは、自分たちが物事の良し悪しを定める価値観と同じようなものだと思うな。
自分でも何かいてるのか後半わかんなくなった。

ラズー
人間、感覚はひとつだけで完結するものではなく、2つ、3つくらいくっついて自分でも理解できない形になります。
だから難しい。

パン

よん
だるま落とし
言葉の場合『傷ついた』って感覚は「言われたくない正論」がその対象になることも多いかと。
「ハゲ」だの「デヴ」だの、今ならガッシリ受け止められるけど、昔の俺ならダメージ受けてたかな。
そういう言葉も今ならガッツリ怒りに換えて倍返ししたくなる衝動が多いけど。

pophat

comesunday
生理学的な脳の働きによって、人は知覚を通して得た情報を部分的に拡張・変性し、主観的な情報として解釈して記憶します。
脳は、知覚した情報を過不足なく正確に記憶・再現することができない代わりに、因果関係のような記述的解釈や、未来に起こる関連事象の予測、さらに、一生経験することすらできない架空の事物の空想や、同じ事物に対して他の人には想像もつかないような意味づけを付加したりといった、多岐に渡る複雑で豊かな情報を拡張的に付加して情報を変性させた形で記憶することごできます。
そのようにして、人の意識は、知覚と行動を通して外界と密接に相互作用しながらも、外界とは独立した豊かな世界を記憶として構築しています。
「傷ついた」という感覚は、外的な刺激情報によって意識の世界において自己に対するネガティブな評価を誘発する影響が発生したということで、外界においてその刺激を発生させた何者かに何らかの意図があったか、その意図は何であったかとは無関係に、意識の世界における情報拡張変性として、そのような効果が生じたということです。
つまり、主観的に意識が解釈したものであり、脳の働きの現象として事実です。
勿論、外界の何者かが意図して自己評価を下げることを誘発するように設計した刺激情報を与えた場合には、そうでない意図による他の刺激情報よりもそのような状況が発生し易いと考えられますが、意図されてなくとも「傷ついた」感覚が発生することは決して珍しくはないことが経験的に広く知られており、外界の意図は「傷ついた」現象の事実認定には影響しないといってよいでしょう。
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