批判は「正しいかどうか」の軸で行うものか?(本文参照)
例)
▸ 正しいことを言ったのに嫌われた
▸ 論理的に正しいのに空気が悪くなった
これらは何で起こるのか
良い批判と悪い批判の差異はなんだろうか
命題、内容、相手、場、将来可能性𝒆𝒕𝒄. どこまでを見れば良いのか

ジンバブエゆみか
良い批判を挙げるとするならば、「未来志向であり、生産的である批判」なのではないか。
反対に悪い批判とは、「過去志向で他責的であり、非生産的な批判」なのではないか。

KaTaTuMuRi

🇨🇽nano㌨
どのような場面かが設定されていないため、「職場」での出来事として記載します。
【結論】
批判は正しさを主軸として問題ありません。
【解釈】
批判とは改善を促すために成される行為です。その改善を怠ることで会社が責任問題や賠償請求を将来的に抱えるリスク、または統制上の小さな問題でも監査等で不備の指摘から過年度の修正作業が必要になるケースがあります。これは批判対象として良いです。
【空気が悪くなる意味】
将来的なリスクは、裏を返せば今やらない選択をすれば、「目の前の負荷」を誰も抱えなくて良いという意味です。即ち、指摘をすることで誰かが何らかの負荷を受けることや、論理的に明確にすることで誰の責任かまで断定してしまうことを避けるのが空気読みの社会です。
【解決手段】
人格否定をする批判であるならば、論理的とは言えませんが、論理的批判をした上で「空気を読めない、嫌な人」と言われたなら、論理的に議論できる相手ではないと思われます。「いつか誰かがやればいい(今、自分でなければいい)」という人に正論をぶつけるよりは、理解ある管理職等を通じてリスクを上げてもらうことも1つの手だと思います。

しん
私たちはしばしば、正しさを言葉の中に探す。
「それは事実か」
「筋は通っているか」
「矛盾はないか」
もちろん、それらは大切な問いである。もし正しさへの関心を失えば、私たちはただ気分や多数派の声に流されてしまうだろう。
けれど日常を見ていると、奇妙な出来事が起こる。
正しいことを言ったのに嫌われる。
論理的に説明したのに空気が悪くなる。
そのたびに私たちは、「なぜ正しさが伝わらないのか」と考える。しかし本当は、正しさが伝わらなかったのではない。正しさだけでは、まだ十分ではなかったのである。
たとえば、道に迷っている人に地図を渡すことは親切だ。だが、その人がいま足を痛めて座り込んでいるなら、必要なのは地図より先に腰を下ろす場所かもしれない。
正しい言葉も同じである。
言葉は内容だけで存在しているのではない。誰が、誰に、どのような関係の中で、どの瞬間に語るかによって、その意味を変える。
だから批判とは、誤りを指摘する行為というより、相手の未来に関わる行為なのだと思う。
良い批判は、相手を間違いとして扱わない。
相手にもまた考える力があることを信じ、その人が自ら歩いていける余地を残す。そこでは正しさは刃物ではなく、道を照らす灯りになる。
反対に悪い批判は、内容が正しくても、相手を沈黙させる。誤りを正すことよりも、自分の正しさを証明することに向かう。そのとき論理は勝っても、対話は終わる。
では何を見ればよいのだろう。
命題だけでは足りない。相手を見る。場を見る。関係を見る。そして、その言葉がこのあと何を生み出すのかを見る。
正しさは完成されたものではなく、誰かとの間で生き始めるものだからだ。
日常の哲学は問い続ける。
「それは正しいか」だけではなく、
「その正しさは、人をどこへ連れていくのか」と。
批判とは真実の所有を示すことではない。真実に向かって、ともに歩こうと誘うことなのかもしれない。

ふー
バランスを崩している事象を否定するための批判なのか、バランスを崩すための批判なのか、という部分は肝要かと。
実生活的には、罪を憎んで人を憎まず、罪を犯す人と関わるべからず、ですかね。

セナ
どちらかに偏ってれば、理屈っぽいと言われたり
感情論といわれる。
たれぱん
そうすると、「正しいかどうか」の軸で良いと思います。本来は善悪を判断するだけなので、、、
「批難」と似ているけど、ちょっと攻撃的要素が入ってくるようです。
嫌われたり、空気が悪くなるのは、相手が「正しくないこと」を考えていて、それを否定されたと思ったからかな。
良い批判と悪い批判について、、、
良い批判は相手を正しい方へ導くということであれば、丁寧に相手の立場を深く広く考慮する必要があると思います。
悪い批判は正しいと思ったことをポンと出して、相手が怒って聞く耳を持たなくなり、本来正しいことをから距離が離れることかな。

Yoo
まあ、的を射た批判であったとしてもそもそもの関心とか研究対象から若干ずれた、いわゆる外在的な批判と生産性のある内在的な批判が存在するので区別しないといけないね。
ただ、外在的な批判であっても理論的示唆に富むというか、より多面的な主張形成に役立つものもあるからね。これも分野に依りますよね。
少なくとも学術的には知的誠実さが求められるから、SNSのバトルで人格批判とかよくあるけどお話にならないものだよぬ。あと、単純に文脈を無視して議論するとか論点がごちゃごちゃになってるとか。
まずは教科書的な、その分野で共通了解を得ていることろから話が始まるんですよぬ大概は。基本的に論文は各分野の各特定の領域の専門家に向けて発信するものだから、オレは〇〇の理由でこう思う!と教科書的な文脈を無視して議論しても、それは一人相撲ですからぬ。
正しいかそうでないかで話を進めてもあまり意味はないと思いますよ。だって自分が正しいと思うからそう主張するのであって、それをおしすすめても価値観の応酬にしかならないですからね。

るう
批判そのものが既に攻撃だし。
批判は人対人。
その対象によっても違うし。
個人対個人、個人対価値観だったり概念とか団体なのか、とか。
結局は人の心に触れるものだから
「良い批判」は、救われる批判
「悪い批判」は、傷つける批判
かな。

竹丸
だから客観的に善し悪しを判断するために、正しいかどうかを軸にするのは良いと思う。
しかし、正しさ''だけ''をぶつけるのは、相手を追い詰めてしまうだけだと思う。
正しいかどうか(正論)だけでは何も変わらないから。ただの文句や否定の形(意見)として捉えられてしまうのかなと。
以下は私が納得したどこかで見た言葉⤵︎
『正論とはギザギザの付いていない鍵のようなもので、どんな鍵穴にもはいるけれどそれだけでは意味が無い。大事なのは正論を軸として、落とし所や参考になるところを探して、解決の糸口に合う鍵にすること』
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