命に触れた時の感覚はどう言語化出来るか?そもそも言語化が必要か?

正宗(ろー)
試行回数を増やして10回施工したら7回か8回は死の結果だったと考えます。
その他一歩間違えたら死んでた場面もありますが、やっぱり生かされているという実感になります。
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死ではなく、生にフォーカスすると、「温かささ」だと思います。
母が入院先で亡くなったときに、母の手に触れたとき冷たくて、背筋がぞっとするような、死ぬとはこういうことか、と感じたのを今でも覚えています。
恋人と触れ合うときも、ペットに触れ合うときも、温かさを感じます。
神がいるかどうかは不可知論の立場ですが、神のような存在があるとしたら、自分は生かされていて、命は温かいと感じます。
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別の言い方をすると、動と静。
命には両方の性質があると思います。
現代社会だと動のみが命になると思いますが、本来の人間の営為を考えると、当たり前に静が存在していたと思います。
枯淡の美や枯山水を見ると、そういったものを考えます。
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言語化が必要かどうかというよりかは、命について考えたとき、言語化しないとその前意識的な概念や感覚を自己においても認識できなくなるので、
言語化は即ち命について考えさせる問いになる働きがあると考えました。

ゆー

🍡

夏目
命は体温だと思う。

ふー
後に言語化できるとは思います。
ヤバかった、凄かった、悲惨だった、悲しかった
等の感想としてか、状況によりますがギャーとかうわー、誰か助けてーぐらいだと思われます。
誰かに伝える必要が無ければ言語化は必要ないかもしれません。
私は凄い衝撃的な事は言葉に出来ない
言葉の壁を越えるから

ひろ✨
斜め下からの回答失礼しました。

しんや
外郭として、我らの五感はセンサーとも道標ともなりますが、本質に触れている実感はありません。
儿(じん)
因みに、自分は身内の赤子のほっぺを触った時は食べたことないのに水饅頭かと思った。

サト
バイクでコケた時の「死ぬかと思った」
これは言葉では言い表せない

宵花月
言葉にしようとした時点で、すでにずれてしまう。
触れた瞬間には、
名前も意味もまだなくて、
ただ在るだけのものだから。
だから、本来は
言語化しないほうが正確だと思う。
それでも言葉にするのは、
必要だからというより、
残さずにはいられないからだと思う。
触れたものそのものは残らない。
だからせめて、
ずれてしまった形でもいいから、外に置く。
言葉は、再現じゃなくて、
触れたあとに残る痕跡なんだと思う。
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