理解とは、「対象そのもの」を捉えることなのでしょうか。それとも、「対象の関係性や構造」を捉えることなのでしょうか。
ここでいう「理解」は、
対象を把握し扱える状態を指しています。
要素単体の把握と、
要素同士の関係性の把握は、
同じ理解と言えるのか気になっています。

透明人間

夏休みの最終日
例えるならばジグソーパズルの最後の一枚の形は関係性で捉えられるけど、そのもの自体が無ければ完成する事は無い……的な

ナツキ

aki

山葵
そのもの=一人称視点での対象Xの分析結果
関係性や構造=三人称視点での対象Xの分析結果
どの道、当人にも及ばぬ領域が存在します。
捉えた気になっているだけで、完全な把握にはその更に上の視点が必要になる事は明白です。
然しながら我々は、後者を無理矢理前者の枠組みに当て嵌めているような気さえします。
如何でしょうか。
理解の孤立さは、提示された内容だけでは到底測りしえないものだと思うのですが。

シフ
水とは何か。というのを『生存のために必要なもの』ととらえるか『火を消すの道具』と捉えるか、『調合のための溶媒』と捉えるか、『運搬の意味で比重1未満のものを浮かせる媒体』と捉えるか、『HとOが2:1で結合しているから分解時にその比率で酸素と水素が出てくるという計算用』なのか?
一つのものにもいろんな性質があって、そのどれを使いたいか、着目するかで変わるから。『水そのものがどんなものか』なんて使いにくい情報。

コーユー
分析のような理解はでなく、統合や意味づけのような理解であっても、取り出した要素をつなげたりラベルを貼ったりする行為なので、前提として“分ける”があると考えます。
そして、要素を分けるには「違い」を見る必要があります。違いを見るということは、他との比較=関係性を前提にしているということです。
つまり、単体を理解しているつもりでも、実はすでに関係性を使っています。だから「完全に単体だけの理解」は存在しないのでは、と思っています。
一方で、単体の理解は“性質・特徴”といった静的な視点、関係性の理解は“時間・因果”といった動的な視点。
見る軸は違いますが、どちらも同じ「理解のプロセスの中」にあるものだと、私は捉えています。

さら
言葉で対象を言語化して受け取る私たちでは対象そのものを捉えるのは無理だと思う
対象の関係性や構造や印象を言語化することで私たちは対象を認識する、つまり私たちが捉えているのは対象を言語化した言葉でできた別の実体である
故に、真に対象を理解するなど不可能ではないだろうか

たらん
それぞれ人には尺度があるからね

ふー
理解だけの言葉だとその人の主観よって範囲等がバラバラになると思われます。
どこからどこまでハッキリしているとわかりやすいですね
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