表現の逸脱の境界線はどこにあるのか?(本文あり)
一般的な逸脱(例えば犯罪とか)はイメージつきやすいです。しかしこと「表現」になると、例えば芸術活動ですが、線引きがメッチャ難しい。研究なんかもそうです。倫理や規範はこのカテゴリには効かない。であればそもそもそこに線などないのか?線が無くて困る事は何か?うーんと考え込んでしまいます。

ベクトル

正宗(ろー)
ほんらいの不機嫌は、生理的信号であり、生理仕様であり、ただの感情です。
しかし、不機嫌は戦略的利用が可能で、自己の欲求や目的を押し通したいときのツールとしても使える性質があるので、このことから一般的には不機嫌=悪と認識されがちだと重います。
同様に、表現に感じても、本来の表現はただの人間の営為であってただの表現だと思います。
しかし、貶めたいとか、印象操作したいとか、自分に注目を集めたいとかを実現させるためのツールとしても利用できます。
なので、境界線を考えるときは、『表出されるもの』の閾値で見るのではなく、表現と表現の中に包含されているナニカを分離して、後者で判断するのが妥当と考えました。
(実際にそれが判断できるかはこの回答では扱いません)
▸ 感情と戦略的利用
▸ 表現と戦略的利用
裁かれない『戦略的利用できるもの』は間違いなく人間社会で価値を持つと考えます。
子供も癇癪やウソ泣きが裁かれなかったら多用しますし。
ただ、人が行うものと、組織が行うものに関してはまた分離した方が良いと考えます。
(組織の方が責任は重くした方が良い)

こうた
意味のある言葉と、意味のない言葉の繋ぎ合わせ、しかし、表現として使う分には使う場面によって、意味があるように思わすことができる。という意味がありそうでない文章

春蕾
Hurt
ちくわ

勇者王Himmel
(東京放送やテレ朝のような)デマや捏造じゃね。

サト
結局は視聴側の快不快の問題で、そこは人それぞれ
例えば直近の災害とか事件次第で不謹慎と言われたり
じゃあ発信側がどう判断すればいいかといえば
「これを言ったら燃えそうだな」という危機管理かな
あとは配信プラットフォームのガイドライン次第
結局明確なラインは無い
誰がいつ何処で何を言うかに寄ると思う

罪
・一昔前まで税金の無駄と比喩された『天皇家のご活躍』→された。又はなされた。
・遺体がグチャグチャ→『損壊』
・総理がなされた→判断はしてないけどとりあえずやった感出したいからポーズのみ(決めてない)
・惜しくも→そうでもない。

