何を根拠に「私」と定義できるのでしょうか?
私は、私というものは自分以外の存在がなければ定義しにくいのではないかと感じています。
もしそうだとすると、私は私だけで成立しているものではなく、他者や環境との関係の中で成り立っているのではないでしょうか。
また、身体で考えてみても疑問があります。
例えば爪は自分の一部ですが、切った瞬間それは「私」ではなくなるのでしょうか。
では身体のどこまでが私なのか。
身体、記憶、意識、関係性など、いろいろな要素があると思いますが、
私たちは何を根拠に「私」と言っているのでしょうか?

ヤン卿

BEVEL(べヴェル
すでに私の箱の蓋は私が開けているから

明

サンズ434

シロchan

ワニ
自分とは何かという永遠の議題に陥った時、私は最終的にこの言葉に辿り着きます。そしてまた何度も議論します

ふー

正宗(ろー)
その観点からだと、人間は自己や事象を物語的に認識すると導かれるかと思います。
一般的に、切ったあとの爪はゴミと認識され、ここに、生体破片であることから不衛生というラベルも付いたりします。
このように、物語的に解釈することで、真理、定義、存在、閾値、必要条件や成立条件、十分条件といった思考を挟まずに判断ができるので、認知資源のエコに、この物語的に解釈するという認知のヒューリスティック(短絡)が役に立っていると解します。
「私」に関しても同様に、物語的に解釈されるので、
思い出や自己の価値観、自己の正義、社会的評価等から自己を物語的に解釈し、『私は、このような人間だ』という自己認識が生じ、この自己認識が大きく自我に影響していると考えられます。
ただ、ここで問題となるのは、「私」という語が存在論的な観点からなのか、心理学的な観点からなのか、指しているシニフィエが「自分」なのか、「自己」なのか、「自我」なのかでイメージのサリエンスがことなるのと、定義を行ったところで、こんどは定義の解釈が揺れるという性質があるので、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム的性質により、解釈のズレが生じる部分です。
個人的には、『私が認識する私が「私」』となりますが、メタ認知的な観点からだと、『感じる私』と『観測する私』の双方の私があることになり、結局「私」とは?が確定しません。
私の場合は、
『感じる私』をobject A、
『観測する私』をobject B、
A+Bをobject Cとして、
『object C+object Cを認識している私』を「私」と認識しています。
ここは無限後退(…は認知能力的に限界があるので)とまではいいませんが、後退可能性があるので、『object C+object Cを認識している私』を「私」と固定することで、自己認識を安定させていると思います。
そのように考えると、『自己認識を安定させているもの』が「私」に関わると考えました。
つまり、『自己認識を安定させるもの』が複数の束や関係性の線で構成され、これらの関係構造や関係線で、安定系として存在しているものが自己認識を作り、この自己認識から生じるものが「私」という概念だと考えました。

Jaco_ten

憂い顔の騎士
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