まず、人は単純に善だから行動し、悪だから行動しないわけではないと考えます。実際には、人は欲望や恐れ、善意や衝動などさまざまな動機で先に行動し、そのあとでその行為が善悪として評価されることの方が多いはずです。その意味で善悪は、最初から行為の中に固定されているものというより、それを見たり受けたりした主体の目線から与えられる評価だと思います。その主体は誰かというと、一人ではありません。まず行為者自身の目線があります。自分では善いことをしたと思っていても、相手の目線では、同じ行為が悪と見なされることもある。さらに共同体や社会の目線があり、そこでは秩序や関係を守るか乱すかという観点から善悪が語られます。したがって善悪とは、特定の誰か一人の目線で決まるものではなく、行為者・相手・共同体という複数の目線が重なり合う中で成立する評価だと考えます。そしてその中でも、特に強く働くのは、被害を受けた側や秩序を乱されたと感じる側の目線ではないかと思います。なぜなら、人は善を自分で名乗ることはできても、悪はしばしば他者から指摘されることで初めて形を持つからです。なので私の答えは、善悪とは誰か一人の目線ではなく、行為者・他者・社会の複数の目線からの評価であるということです。
集合体的、全体の善悪が極まると、同調圧力になるよね。コロナ禍の時の集団接種の時のような。個人的な善悪もあるけど、それはさ、時代によっても、また個人の成長によっても変わるもの。誰目線なのか、他人と自分と、全体のものでは。
集合体的、全体の善悪が極まると、同調圧力になるよね。コロナ禍の時の集団接種の時のような。個人的な善悪もあるけど、それはさ、時代によっても、また個人の成長によっても変わるもの。誰目線なのか、他人と自分と、全体のものでは。