善悪は誰目線なのか

BEVEL(べヴェル

正宗(ろー)
❶自己の価値観
❷集団的規範
❸常識やマナー等の社会通念的な規範
を、参照し、自己に都合が良いものを❶〜❸のどれかを判断軸としていると考えます。
人間は認知処理の制約により、すべての情報を精査できないので、短絡(≒簡易判断)を多用します。
このとき、真に事象を捉えようとするのではなく、自己物語に整合するように解釈する傾向が高いことが既存研究で分かっています。
なので、自己にとって都合が良くなるように、場面場面に応じて、今回は❶を採用、今回は❸を採用、今回は❷を採用のように、判断軸自体を自己都合で(無意識的)に動かしてしまいます。
これは、権力行使とも深く関わっていて、裁判官は判断軸を自由に用いることにはモラルだけでなく、制度・システム的に抑止が働きますが、
中小企業の社長や親のような立場だと、監査が入らないため、自由な判断軸を用いることが行われがちだと解しています。
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善悪判断について尋ねられたときは、多くの人は『理念』として法やモラルや社会規範を挙げますが、『実務』に関しては❶〜❸を可変的に用いることが多く、ここに人間の認知処理や心理と絡んだ『理念と実務』の矛盾があります。
故に、思考空間や授業では『理念』についての話しをしており、日常においては『実務』が優先されるという構造にあるので、理念レイヤと実務レイヤを分けて、特に実務レイヤがどのように処理されるのかを紐解くことが善悪判断を語るときに大切なことと考えます。
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問への回答としては、善悪判断は誰目線ではなく、善悪は誰判断とあるので、この場合は人、社会、集団、国家、司法、神のいずれかとなりますが、
善悪判断と解した場合は、自己(≒社団や国家の代理人含む)が、善悪判断の価値基準を参照して、自己物語と整合するように判断されるか、事実と照合して判断される、と回答します。

憂い顔の騎士
ソマチッド

わいわい
実際には、人は欲望や恐れ、善意や衝動などさまざまな動機で先に行動し、そのあとでその行為が善悪として評価されることの方が多いはずです。
その意味で善悪は、最初から行為の中に固定されているものというより、それを見たり受けたりした主体の目線から与えられる評価だと思います。
その主体は誰かというと、一人ではありません。まず行為者自身の目線があります。自分では善いことをしたと思っていても、相手の目線では、同じ行為が悪と見なされることもある。
さらに共同体や社会の目線があり、そこでは秩序や関係を守るか乱すかという観点から善悪が語られます。
したがって善悪とは、特定の誰か一人の目線で決まるものではなく、行為者・相手・共同体という複数の目線が重なり合う中で成立する評価だと考えます。
そしてその中でも、特に強く働くのは、被害を受けた側や秩序を乱されたと感じる側の目線ではないかと思います。
なぜなら、人は善を自分で名乗ることはできても、悪はしばしば他者から指摘されることで初めて形を持つからです。
なので私の答えは、善悪とは誰か一人の目線ではなく、行為者・他者・社会の複数の目線からの評価であるということです。

あおいろサングラス

はまっち
と自分に問い直すこと。それが、哲学的に生きる最低限の誠実さだよ

ナトル
もう一つな 第三者目線で見た外部の人

ヤン卿

🐟二号
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