人生の意味は最初から存在しているのか、 それとも人間が後から作っているだけなのでしょうか。

かず
意見としては、人生の意味は最初から存在しているけど、意味の内容(正しい言い方?)は変わってくると思います。
時間は、過去・現在・未来に分けられます(時間について深掘りする議論は一旦置いておきます)。すると、人生も同じく過去・現在・未来に分けられます。
未来は可能性という意味として、現在は未来の選択の試み・感情の受容という意味として、過去は思い出や世界への影響という意味として存在しているでしょう。
したがって、生まれた瞬間は、現在・未来しかなく、人生とは選択の試み・感情の受容・可能性という意味でのみ存在することになります(赤ちゃんに選択の試みが可能かどうかは分かりませんが笑)。言うなれば、人は可能性という意味とともに生まれてくると言えるのではないでしょうか。
同様に、生まれてから命が尽きるまでは過去・現在・未来それぞれとして人生の意味はあります(詳しい内容は上述した通り)。
そして、命が尽きても、過去として、ーすなわち思い出や世界への影響という意味がー存在していると思います。

だいすけ

花粉症
生きる意味なんてなくてなんでも意味を求めようとしてるのが人の性質なんじゃないかと思ってる

正宗(ろー)
(答えようとしているのですが、どの『存在』で回答すれば良いのかが判定できなくて、回答が作れないことがあります)
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存在論的な意味での『存在』なのか、『少なくとも1つは存在している(状態の記述)』なのか、
『存在』をテーマにするときはここを明瞭にした方が回答しやすくなるかもしれません。
日本語だと、同じ『存在』という語になってしまうのですが、
❶「世界だと思っているものは本当に存在しているのか?」
と
❷「机の上にはミカンとリンゴが在り、ブドウは無い」
だと、両者の『存在』は別の使われ方をしていることが分かると思います。
あるいは、
『存在は存在するか?』
という問だと、前者の存在が❶で、後者の存在が❷になるかと思います。
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デカルトは、
「私は見ている」
↓
「だが存在するか?」
という疑問を提出しました。
(認識 ≠ 存在)
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ラッセルは存在文を論理構造に分解しました。
「ここにリンゴはあるか?」
↓
0 or 1
(真偽値)
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フッサールは認識行為(noesis)と認識対象(noema)を区別しました。
※ここはまだ私の理解が浅いところなので、説明できる方がいたらお願いしたいです。
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ウィトゲンシュタインは言語ゲームで、存在という語の使用場面によって存在という語の意味・使われ方が違うことを説明しました。
(多義語の話ではない)
▸ 授業中に手を挙げる(発言したい意図の表出)
▸ 歯の治療中に手をあげる(耐えられない痛みがあることの伝達意図の表出)
☛同じ『手を挙げる』でも使われる場面によって語の意味が変化する性質。
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問に対して、具体が無いから答えられないというタイプのフィードバックもたまにあるかもしれませんが、こちらは抽象 ⇄ メタ抽象を扱うことが要求される問に来ることが多いのですが、
本問はそのパターンではなく、言語ゲームの方と解しました。
日本語だと、『◯◯したい』が意思 or 欲求が同じ文章になったり、『できない』がdon't or can'tが判定できなかったりするので、こういった日本語の言語仕様も絡むケースもあるかもしれません。


憂い顔の騎士
さんかく

風の音
その生物の1つである「人」も、他の生き物と同じようにDNAを継承していく…
この繰り返される生命の営みに、「思考」という人間特有の能力が、それぞれの文化と知識により後付けで解説しているものと、おれは考えます。
ピダハン族には時間の概念がなく、「未来」「過去」の言葉がありません。
彼らにとっての人生は「今この一瞬を楽しくいきる」だけであり、人生の意味に悩んだり後付けで解説したりすることもない。
「なにかをなさなければならない」「〜だから人生の意味がある」なども、戦場に生きる人たちや生まれてこれなかった命の人たちにとっては「考える時間があって平和だなぁ」と感じるだろうし…
その程度でしかないと、俺は思う

ちぇりる

要わんわん

もも
この世の全て後から自分で全部意味を見出してる
気がする
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