言語化されない「認識」はあり得るか?
痛いは感覚、不安は感情。これらは「認識」ではないと思うのですが、どうでしょう。

シフ
でなければ赤ん坊がどうやって物事を認識するんだ。
というか、『言語化するのに認識が必要』です。
腹減ったいう言語があって認識するんじゃない、腹減ったという肉体のシグナルを認識してそれを空腹と言語化することで『明確化』しているだけ。

豆腐の人生
暗黙知を形式知に変換する作業は大切なことではあると思います
哲学は、その試みでもあると思っておりますが、文学はメタファーでそれを成し、科学は数値によって証明する行為なのだと思います

はる

白鴉🐦⬛

Jaco_ten

はまっち
たろう☸️
人の認知って、五感の情報を認識して、それらをラベリングして言語として処理してるのではないですか?
言語化する前の認識として、身体感覚やその場の雰囲気、赤ちゃんとかの意思表示があり得そうです
人は、先に情動や判断を行ってから、後付けでそれを言語化してるらしいではないですか
認知を言語化すると言うのは、人が把握済みの情報を外部に出力できる状態みたいなものでは?
スポーツを行なった時の身体感覚って精密に言語化しようとしても困難ですしね

けんちゃん

あいす食べたい
行間や、感覚、言葉にすると
鮮度が失われてしまう「認識」はあり得るのでは?

ヒトリ
る
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