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心は事象として存在するのか。主体の認識の中に存在するのか。

くま男爵

くま男爵

日本人の美的感覚すれば、主体性の中にあるワビサビが、心になるはず。事象として心が存在してることもある。ってのとは、こころって、魂や念のことをさすとおもうけどね
哲学哲学
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憂い顔の騎士

憂い顔の騎士

他の質問で回答したことと似ているかもしれませんが、心とは、各人の意識下に、言語化できない何か「在る」ものだと思います
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もちょ

もちょ

心は独立した実体としてあるというより、身体・無意識・意識の状態変化を主体が認識したときに立ち上がる概念だと思っている。
世界基準では事象として記述できるが、私にとっては主体の認識の中にしか現れない。
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j

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まず仮定してみましょう。心を仮に「事象として存在する概念的な実在主体」としましょう。そして、これに反論する形を取っていきます。心の構成要素を分解しましょう。心を保有する実在主体が存在するとします。彼が心を事象として含有するとして、それは彼の生物学的・遺伝的・環境的・経験的・その他微細な実在概念の連関によって成立していると、「直感的には」言えます。ではこれは真実なのでしょうか。先の仮定が真実とすれば、上記の要素は心という始めから存在する概念的な実在主体を変質させるにすぎません。赤子として生命を持った瞬間から、心という概念的な実在主体を保有し、それを多数の要素が変質させる。そう言えるわけです。しかしこれは言語・写像という概念が反証可能性を保有します。言語、ウィトゲンシュタインで言うところの写像は「心」が存在することを明らかにする。しかし、それなしに「心」は認識できるでしょうか。要するに、「心」は写像がなければ成立しないが、概念的な実在主体として初めから存在していた場合でも、写像能力を獲得するまで「心」を認識できないわけです。ですが少し注意として、AIのフレーム問題に代表される、写像能力が「心」に優越していない、という主張もできることを置いておきたいです。少し散らかってしまいましたが、写像による認識を得なければ心は心として認識されず、しかし事象として最初から存在する可能性もまた否定しきれていません。あやふやな結論ですので鼻で笑っていただいて構いませんが、要するに心が事象であるか否か、というのは形而上のものであり、写像を使う限りは認識できません。哲学徒の用いるオチとしては若干使い古されてはいますが、「語り得ぬものについては、沈黙せざるを得ない」という引用をもって、本質問への回答とさせていただきます。
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ひかり

ひかり

究極のところデータだと思います。
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ラズー

ラズー

心は人を纏っている肌の上にあるもので、敏感に事象に対して反応するもの。

だから疲れる。
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ゼブラ

ゼブラ

私の考えが未熟か?
心と認識はたまごと鶏と同じでは?どちらが先か?と同じと思うが?
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おとこ

おとこ

観測できないものは事象ではない。人が言語で作り出した不明瞭で曖昧なことに名前をつけただけ、神様と同じ。
ただ、心を信じられない人は人ではない
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そうじろう

そうじろう

そんなことより朝マック
どれにするかなんよ[ハートポーズ]
意外とメニュー悩むん僕だけ[え]
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はかり

はかり

物質として存在する物(ニューロン)に保存されたデータの出力方法(これも構造により規定される)であると思います。
更新される事を考えるとそれを出力する構造はソフトウェアと言えるでしょう。

心の様相を客観的にみて表出しているように見せる物が物体として存在する。
という答えはどうでしょう。

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