まず「哲学」って何でしょう?
哲学に判定って存在する?しないもの?
「これは哲学ではない」とか。
あるなら、どこからが哲学の判定という認識?

ノブ
「考えて」「分かろう」することだと思います。
唐揚げのレモンは無条件にかけるべきか、
まず食べる人全員の同意を取るべきか、
あのレモンは口直しで食べるものだけど一つしかないから誰が食べるかを拳で語るべきか、
を「考えて」何がよりよいかを「分かろう」としている時点で哲学だと思います。
業としている哲学者という方々は、
より一般的な世界について「考えて」「分かろう」とした結果、
なにかの理性を批判した、プチ鈍器のような本を世に出したりします。
で、なんかスゲーとなって哲学わかんね〜となるわけですが、
スケールが違うだけで、唐揚げレモンも理性もやってることは一緒です。
人間は「考えて」「分かろう」とすることを日常的に本能レベルで行っています。
それを小難しくまとめられたものを見ても、
日常と違うものだと思い込んでいるだけではないでしょうか。
例えば、オリンピックや世界陸上の競技も、
100mで20秒かかっても両方とも「走る」ですし、
美術館に展示されている絵も、
授業中に教科書に描いたものも、両方とも「描かれたもの」です。
それをスポーツ科学や芸術論の小難しい論文で説明されても、
自分たちが体験した「走る」や「描く」と同じことだとは思えないのと同じです。
哲学は役に立つのかと言われますが、
「考えて」「分かろう」とした結果として倫理学というルールはこうですよというジャンルが生まれました。
ルールを作っても無視され、人道的殺傷兵器という矛盾した単語が生まれたりしながらも、人間の業と平和の狭間でなんとかがんばっている戦争倫理学という倫理学のジャンルがあります。
無駄かもしれませんが、戦争倫理学がなくなったら戦争はとんでもないことになるかもしれません。
ということで、唐揚げのレモンは口直しで食べるものだから
私によこせと言っているヤヴァそうなオッサンを見かけたら、
生あたたかく見守ってください。

小國(おぐに)

もか
① 問いが「前提」に向いている
「それは本当にそう言えるのか?」
「そもそも、そう定義する理由は何か?」
② 理由づけ(論理)がある
なぜそう考えるのか
どの前提からその結論が出るのか
③ 普遍性を目指している
「私の場合」では終わらず
他者にも通用する構造として語ろうとしている
④ 反論を想定している
「こういう反対意見があり得る」
「それに対して、私はこう考える」
この4つが揃った瞬間、
それは個人の考えから
哲学的思考へ移行します。

シズ
「時代によって答えが変わる」学問とも言える。
本当に答えは変わるのだろうか
大きく分けて二つの立場があります。
相対主義において
真理や価値は時代・文化によって変わる。
例えば
奴隷制度は古代では正当化された
女性参政権は近代まで認められなかった
倫理観は社会によって異なる
この立場では
「答えは時代とともに変わる」
普遍主義においては
真理は変わらない。
人間の理解が変わるだけ。
例えば
2+2=4 は時代で変わらない
人間の尊厳は本質的にある
善悪には普遍的基準がある
この立場では
「答えは変わらない。私たちの見え方が変わる」
結局のところ哲学の面白いところ
哲学は、「答えが変わること」自体を問題にします。
例えば
なぜ時代によって正義が変わるのか
変わるなら、それは本当に正義なのか
変わらないものは存在するのか
歴史的に見ると
古代:真理は神や自然にある
近代:理性にある(デカルト・カント)
現代:言語や社会構造が真理を作る(フーコーなど)
つまり、
「答えは変わる」と考える思想もまた、時代の産物ではあるかと。
哲学は「答えを固定する学問」ではなく、「変わる理由を考える学問」
とも言えるのでは。
ミシェル・フーコー
『言葉と物』
『監獄の誕生』
トーマス・クーン
『科学革命の構造』
リチャード・ローティ
『哲学と自然の鏡』
プラトン
『国家』
善のイデアは普遍であるという思想。
イマヌエル・カント
『純粋理性批判』
『実践理性批判』
『道徳形而上学原論』
ユルゲン・ハーバーマス
『コミュニケーション的行為の理論』





正宗(ろー)
哲学という語彙の射程が広いので、そこから『哲学観』の個人差が大きく、『これが哲学』という定義が個々に異なると思います。
┈┈┈
個人定義の『哲学』との不整合を検出したら、その自己認識を普遍的認識と誤認して、「それは哲学ではない」と言っているだけのように感じます。
定義的な操作はしませんが、
♦︎『広義の定義』と『狭義の哲学』
♦︎『My哲学』と『Your哲学』
が存在すると思います。
狭義の哲学として認識されやすいのは、哲学者、古典哲学、形而上・形而下学等が挙げられると思います。(この文脈では)
普遍的哲学が仮に存在したとしても、『世界』をどう捉えるかは個人差が生まれるように、個々の認識には相対性が生まれるものだと解します。
語彙を独自解釈したり、規範を独自解釈することには疑義がありますが、
この場合、哲学の普遍的定義ではなく、個々の『観』が関わっているように思えます。
『人生』という語彙の意味は定まっていますが、『人生観』になると相対性が生まれます。
この場合、自分の『人生』規範で、相手の『人生』を評価したり真偽判定したら、ここには当然にズレが生まれると思います。
纏めると、自己の主観認識が普遍的定義になっており、『観』と『定義』が混線しているように思います。
┈┈┈
また、
カテゴリーとモダリティは弁別されるべきだと考えます。
♦︎『哲学カテゴリー』と『哲学モダリティ』
ブックオフの哲学書棚にあるのは哲学カテゴリーで、カテゴリーに関わらず、事象を捉えようとする思考の様式、本質に迫ろうとする思考の様式、自己の認識を検証しようとする思考の様式は哲学モダリティにあたると解します。
哲学カテゴリーの問や回答に対して、冷笑モダリティで接するのはあまり哲学的態度とは思えませんが、
カテゴリー重視で捉える方と、モダリティ重視で捉える方に個人差があるように思えます。
これは上下や優劣ではなく、横や差異であって、その人の認知フレームに依拠するものだと思います。
また、差異や不整合を検出したときに、評価したがる方、真偽判定したがる方、黙秘やスルーする方、受容する方と、不整合検出時の態度や振る舞いにも個人差があるように思えます。

雨音(うと)
これはなんの現象かとか、悪霊が主人公の死者として現れるのは、主人公の罪悪感の投影であり
とか考えたりするのも、私は哲学の一種だと思ってて
なぜなら、大体の会話は何だったんだろうねーで終わったり、ランチとかでもそんなに深堀しない。
考察厨同士が集まって、その話が科学、認知学、心理学、人間学まで広がったりしたらそれはもう哲学なのでは?と思ってる

憂い顔の騎士

若
ティリル
「見えないものについて考える」
これが哲学だと僕は思ってます。
例えばサッカーの試合で勝つことについて実験したりすることは哲学ではないですが「なぜ勝ちたいと思うのか」は哲学だと思います。

風の音
今、こうして皆さんがそれぞれの考え方を述べていること自体が哲学だと思います。
仕事などで皆が作業などあれこれ考えを述べる「意見交換」や「yesかnoか」を決めるディベート的なものとは違うととらえてます
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