自己が認識する自己イメージがあり、他者が認識する自己イメージが有る。自己の本質はどこに在るのか?(本文参照)
ここに人間Aがいる。
自己が認識している自己イメージがあり、他者Bが認識しているAのイメージがあり、同様に他者Cの、他者Dの…と続く。
数百、数千人に偏在して存在する自己イメージよりも、
生物的な認知能力の限界があり、矮小な認知能力しかない人間の、たった1人の、自己の主観による自己イメージが、自己イメージの最大因子を構成するのはなぜか?自己が認識する自己イメージはどの程度正しいのか?

黒猫ひろ
我道

通行人
自分は自分。他者が認識する自分も自分。
相反するイメージだとしてもそれぞれがお互いにとってそうだと思っているんなら本質じゃん。
すり合わせしてもズレはのこるでしょ。
人間だし分かり合えはしないでしょう。
自己の本質はその人が望むところにある。

くま
しかし、その本質を自分自身も他人も
完全に認識することはできません。
自分が思っている自分も、
他人から見た自分も、
それぞれが捉えた自分の一部分にすぎず、
どちらも自己の本質の
すべてを表しているわけではないと思います。
👻

リズ

まるまる

女好きの女

斎
自己は常に変化するものであります。
身体の変化もあれば、他者との距離も刻一刻変化し、ましてや情報の波を常に浴び続け1週間前の自分すら思想を異にすることも珍しくない。
自己の持つイメージはそれが持つそれまでの変遷によって浮かび上がるものであり、画一したそれはあくまでその傾向としてしか記述できないあやふやなものと考えます。
個人を記述する際に属性や記号で表すのと、来歴と関係性で記述するのと、どちらが理解が深いと思いますか?
👻
自己って結局は古代人がいったん公理的に当てはめた意識を表すための言葉で、現代も当たり前に使われているのは脳のショートカット用じゃないですか?また、「自己の認識」がすでに言語に編集されたものを認識だと呼んでいるなら、その時点で認識は認識ではなく都合のいい自己像に過ぎないのでは?なんて思います。
本質はどこにあるのか←自分の身体で得られる世界=自分であり、この身のみが自己であるなんてことはないと思いますね

夏目
自分が知ってる自分、他人に見える自分、見える部分の自己は氷山の一角にすぎない。
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