戦争があるから平和があるのか、平和があるから戦争があるのか
とƕとƕ丸
まず、認識の差異があるから戦争があります。認識に差異が無ければ戦争はありません。
その認識の差は不幸を生み出しますが、道徳で認識の方向を示していて、その方向がコミュニティの平和を形成しています。そのコミュニティは一般的に『宗教』が担っています。
『うちの神さんが絶対だ』は、道徳の方向がぶつかり合って戦争が起きます。
で、資本力が絶対な認識、お前のものは俺のものな、ジャイアンな資本主義でも戦争が起きます。
じゃあ、社会主義や民主主義は?
社会主義はすべからく独裁政治、民主主義はすべからく衆愚政治によってうまく機能しません。
社会主義は1人の神様が必要ですから無理。民主主義は、半数以上が人徳が高い人が必要ですからね。情報操作で民意が決まるようではダメです。
だから、その質問自体に無理があります。
戦争は必然で起こり、そこに平和はありません。
平和があるからの戦争は、やられた側の悲惨と亡骸を冒涜して、それを肯定した上での平和。
だから破綻しています。
たれぱん
現代の生活は電気ひとつとっても1人では賄えず、助け合って社会や国ができました。
しかし、
自国だけでは生活が立ち行かなくなった時、ビジネスで解決できないと、世論に押されて、「自国の平和を維持するための戦争」が起きてしまう。 この視点だと「平和(を維持するため)があるから、戦争がある」とも言えそうです。
逆に、他国から攻められて必死に防衛し、暮らしを取り戻せたなら「戦争から自国を守れたからこそ、平和がある」と実感するかも。
守る側か、求める側かという立場によって、どちらの言葉も当てはまる気がします。

しんや
コインの両面みたいなものなのか?

🍜

j
そうすると、この質問には「両者とも正解」という回答ができます。なぜなら戦争は平和を引き起こし、平和は戦争を引き起こすという作用が長期的視点においては成立するからです。しかしそれでは少し味気ないので、掘り下げていきましょう。
既存の世界情勢は権威のパワーバランスがどう力学的に作用し、相互に作用しているか、という停滞構造によって成立します。その力学が限界点に達したとき、戦争という形で情勢の加速構造へと転換するわけです。例えると、幾つかの歯車を想像したとき、それが噛み合って回っている時が停滞構造、それらが錆びたり削れたりして歯車が壊れる時が加速構造、というわけです。そして戦争と平和は、加速と停滞という構造をある種適用できるでしょう。無条件加速主義 (U/ACC) はある種必然性を帯びたこの作用を否定しないという点に重きが置かれています。つまり、平和による停滞も戦争による既存秩序の破壊も、そこに善悪が無いわけです。少し冷血な理論に思われるかもしれませんが、あくまで結果論としての歴史観では、ある種必然性を帯びた構造的力学としてこれらを定義できる。それが重要です。
結局、戦争も平和も過度に美化するものではないな、という個人的感想を述べて、一応の帰結とさせてもらいます。

白鴉🐦⬛

まつ
なし

II
賢い人がいるから平和がある
運良く平和になった国にどちらか選ぶ資格なし

田村まさお
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