価値を全ての事象に対して見出してよいのか
昔からの疑問なんですが、我々が「人間の価値とは?」とか言うとき、ここにおける価値とは、その人間の感覚世界上で成り立っているものであるのに、その世界自体を形作る自体にも、その価値を見いだして良いものでしょうか

のぼ
おおよそ6歳までは基準を記憶する。
それから基準をもとに比べて受け入れる。
「自分の親より良い親がいる」
「自分の暮らしより良い暮らしがある」
逆も然りで不満と納得を繰り返す。
おそらく『全ての事象に対して』というのは、誰か又は何かの基準に対しても別の基準を用いて価値をつける行為のこと。
それは個々がバラバラになった世界だということ。
根差している土台となる基準が個々で違うから起きること。
『同じ』が薄れた世界だから、本来なら疑う必要のない土台となる部分を他人に評価されて価値をつけられる。
意思疎通、心を一つにと先人達が注力して築いた世界が今はバラバラになっていますね。

じゃんち

🎮💧
謳歌ニート
いけないと言われたらこの世の全ての個人的な感情、指標を全て否定することになるが
だったらどちらにせよ妥協する範囲が必要になると考えるのは自然じゃねえか?
両極端どっちもダメなんだろう?そう感じたってことは
なら、自分が価値を認めたい範囲を自分で決めりゃ良い
そうじゃねえのかい?

🌈よっさん

コパ🔍
全ての事象には価値がある
それは人間の判断だけではない
世界は価値によって作られている
動物が水を飲むのはなぜだ?
価値があるから
狭い視点で見てはいけない
真理を見渡せ

ワシじゃよ、猛禽猛禽

しろ
無価値もまた価値。

oyu

コーユー
例えば「窓を開けたままでいい?」という問いも、換気が目的ならOKですが、防犯が目的ならNGです。価値判断もこれと同じで、「何のためか」によって変わるものだと思います。
つまり、その価値づけが目的に対して機能しているなら正しいし、そうでなければ不要です。
この考えを広げると、「価値を生む仕組みそのものに価値を見いだしていいのか?」という問いにも同じことが言えます。それが役に立つなら考えていいし、コストや効率の面で見合わないなら無理にやる必要はない。
例えば、哲学的な思考ではこうした問いは有効だと思います。思考を広げる力があるからです。
一方で、企業の採用のような実務では、より測定可能で具体的な指標が求められる場面も多いはずです。
結局のところ、価値をどこまで見いだすかは、誰が・何を目的に・どこに価値を置くのかによって決まるものではないでしょうか。
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