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人の『意見』は妥当性や信憑性がある場合のみリスペクトに値するか? その人の心から生まれた声という事実をもって、意見そのものをリスペクトすべきか?

意見には認められる条件があるのか 意見そのものをリスペクトすべきか
愛善院

愛善院

気分の悪い問いだこと。
「人間である・他者である」という時点で「自分と同等かそれ以上」のリスペクトを持つべきであって、

「そいつが素晴らしい人格だから」「そいつが妥当性の高い意見をだしたから」「そいつに認められなくてはならないから」ゆえにリスペクトがある(つまり、それらの動因や誘因なくしてリスペクトがない)とかいうのは、あまりにも浅ましいといえます。
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しば

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正しさを評価することに何の価値があるのだろう、人間はいつでも正しさなど求めてはいないし、よく出来た虚構にこそ価値を見出す。ならば、その人が考えた意見は、それだけで価値を見出すに値するのではないか?
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愛善院

愛善院

誰が相手だろうと【敬意を以て全力でお相手しよう、消し炭になっても悔いるなよ?】だ。
手を抜いてどこにリスペクトがあるというのかね?

ただし、4歳児以上ね。
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ニックX🐦‍🔥

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基本的なリスペクトは人と行動(言動もふくむ)は切り離して考えるべきだと思う。
妥当性、信憑性なくても心から生まれた言葉には価値がある。質的研究ってそういうの拾うもんだよね。感情や動機など目に見えないところ拾わないってただの論理的思考オタクな気がする。「わたし寄り添えないんで、共感できないんで」っていう意識高い系レベルだよな。論理的思考突き詰めたら、人間って感情ありきで動いてることに気がつく。そこにリスペクト、価値を感じないとかありえん。感情は例ね。
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めいか

めいか

んー、そもそもどんな場/状況においても、「意見」を発している相手がいるという前提で、一人一人に対してリスペクトをすることが当たり前って認識がありますかねぇ。

仮に自分にとって人格的/行為的に尊敬できない相手だったとしても、それは感情的に自分がそう思っているだけであって、どんな意見であれ、どんな人であれリスペクトはされてしかるべきかなと思います。

また単に意見に対しての好き嫌いや、自分が受け入れられるかどうかは、リスペクトとは関係ないとも思っています。
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