AI時代において、人が作るアートはどのような社会的価値を持ちうるのか
AI技術の発展により、将来的には技巧・表現・新しさの多くが人間の専売特許ではなくなります。
その状況で、人が「自分の身体で」作品を作ることに、どのような意味が残るのでしょうか。
「作るのが楽しいから」「過程に意味があるから」という説明だけでは、価値の基準が個人に閉じてしまい、アウトサイダーアートとアカデミアの区別も成立しなくなるように思えます。
私は、アートは個人の内的衝動から生まれつつも、同時に社会的な価値を持つべきだと考えています。
しん

いしのみ
その理由は大体わかる。だから、感心も芸術的価値も無いと俺は思っている。
人間は、子供の落書きの様な絵に「ゲルニカ」と名付けたり、世の終末を彷彿とさせる無題の絵を何枚も描いたりする。そこには、何か意味があるのか、或いはただの気まぐれか、何にせよその絵を見て俺の心は動いた。
もし、AIが美女の絵を描かなくなったら、その理由を考えてしまうだろうな。

いしのみ
人間の描く絵は、違うのだろう?

aki
でも、人が自分の感情や、唯一無二の経験、
そして人と人の間にしか生まれない微妙な感情や揺れを
作品として表現することは、今のところAIには代替できない部分だと感じています。
それは写真でも、絵でも、音楽でも、文字でも同じで、
「何を作ったか」だけでなく、
「どんな気持ちで、どんな時間を生きながら作ったか」
そのプロセス自体が作品の一部になるのが、人のアートだと思います。
また、手を動かして身につける技や、
作っている最中に生まれる感覚や迷い、身体感覚は、
データとして学習するAIには、単純に置き換えられないものだと思います。
AIの存在自体は、すごく素晴らしく、
私たちに多くの知識や可能性を与えてくれるものだと思います。
ただ、もし人がAIに頼ることだけを選び、
自分で考え、感じ、作り、学ぶことを手放してしまったら、
人は次第に「作る存在」ではなく、
AIのように出力するだけの存在に近づいてしまうのではないでしょうか。
だからこそ、人が自分の手で創作し続けること、
自分自身の入力を重ね、学び続けることには、
社会的にも、とても大切な意味があると感じています。

のり

款冬
対自然の趣味なんてキノコや山菜を判定してもらっても犠牲者が出そうですし、ムーレベルの地震学とか
ましてや愛や死などの原理が理解されてない対象に対してのAIの解答が楽しみでなりません。

カズ
そうなると、今後はAIでAIを見抜く時代が来て、ちゃんとしたアートのみが価値を残せるようになる。
人の温かみがなくなりませんように

えこー

コーユー
①コンセプトの新規性
アートは作品そのものだけでなく、時代背景を含んだコンセプトも含むと思います。
キュビスムやシュルレアリスムなど主義や思想について、AIが全く新しいものを作ることは難しいと思います。
②ブランドとしての価値
有名なアーティストには、ファンがいます。その人の生み出したものだから良い(欲しい)、という思い(価値)はAI時代でも残ると思います。
③作る過程としての価値
恐らくAIは人より短い時間で作品を生み出します。人は長い時間をかけて作品を生み出すかと思います。その過程の試行錯誤は人の成長につながると思います。
これは個人やグループの話ではありますが、アートに関わる人は、アート教室なども含め世界中に数多くいます。
なので、アート作成は人類の成長に寄与する=社会的価値を持ちううる、と言ってもよいではないのでしょうか?
いずれにせよ、この質問は、AI時代前の今の感覚にあったとても良い質問だと思います。
AI時代が到来すると、人とAIの共創が生まれ、質問は次のような質問に移っていくと思います。
・人とAIが協業して作るアートは社会的価値を持ちうるか?
・人とAIとの協業アートは、人のアート呼べるか?
・どこからが人の作るアートとして成立するか?
SUZUME
手作りで作った場合と
AIで作った場合、
まったくそっくりで目視での
差の判断が難しい場合、
その人がかけた情熱の熱量と
その作品に対する知識、
説明が明確に伝わった方が
評価されると思います、
ですがそれは、
『双方の作者の歴史を
評価する人が
知らない場合』が
前提での話であると思います。
その人個人の
今の完成度に
研ぎ澄まされるまでの
苦労や環境と情熱の歴史を
知っている
『ファン』の存在が
個人価値に反映されると思います。
どちらの歴史が評価されるかは
分かりませんが
『差と違い』は
確実に生まれていると
考えます。
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