AI時代において、人が作るアートはどのような社会的価値を持ちうるのか
AI技術の発展により、将来的には技巧・表現・新しさの多くが人間の専売特許ではなくなります。
その状況で、人が「自分の身体で」作品を作ることに、どのような意味が残るのでしょうか。
「作るのが楽しいから」「過程に意味があるから」という説明だけでは、価値の基準が個人に閉じてしまい、アウトサイダーアートとアカデミアの区別も成立しなくなるように思えます。
私は、アートは個人の内的衝動から生まれつつも、同時に社会的な価値を持つべきだと考えています。

なぎ
音楽みたいに時間的な広がりを持つ作品は、AIに大量生産された所で受け手側が消費し切れないのかも知れません。
となると瞬間的に消費出来ない形式のアートには今まで通り人が作ったものに需要が生じるのかな、と思いますね。

ナトル
SUZUME
手作りで作った場合と
AIで作った場合、
まったくそっくりで目視での
差の判断が難しい場合、
その人がかけた情熱の熱量と
その作品に対する知識、
説明が明確に伝わった方が
評価されると思います、
ですがそれは、
『双方の作者の歴史を
評価する人が
知らない場合』が
前提での話であると思います。
その人個人の
今の完成度に
研ぎ澄まされるまでの
苦労や環境と情熱の歴史を
知っている
『ファン』の存在が
個人価値に反映されると思います。
どちらの歴史が評価されるかは
分かりませんが
『差と違い』は
確実に生まれていると
考えます。

シンジ
としゆき
芸術は、絵画や彫刻、様々な音楽形式から詩や小説といった文学作品の類まで、どれであっても絵画や厳とした古典音楽(クラシック)だから芸術になるということはなく、そうした表現媒体でどう芸術思想を具現化するか、その表現方法の手段の仕方において選択された媒体形式、つまり絵や戯曲や音楽などを上手く活用し自身の芸術思想を的確に形あるものとして創りえたものが、芸術作品になることができます。
つまり、AIアートでもその他の形式如何に関わらず、自分の芸術思想を的確に表現できる媒体を、表現目的に応じて使い分けることのできる芸術家や芸術クリエイターが発生しうる限り、社会的な価値から社会の成員から社会機構への様々な効能まで、どのようなものでも産み出しうるし生産し続ける、そう思います。

愛善院
AIでも作れるのに、いまさら人間が時間と労力と費用と空間と感情の迸りをコストに作り上げた、という、いうなれば「かけられた人的コスト」という価値があるのではないでしょうかねぇ。
ピラミッドや万里の長城をAIが創った
ピラミッドや万里の長城を人間(たち)が創った
どちらのほうが「社会的価値」がありましょうかね

コーユー
①コンセプトの新規性
アートは作品そのものだけでなく、時代背景を含んだコンセプトも含むと思います。
キュビスムやシュルレアリスムなど主義や思想について、AIが全く新しいものを作ることは難しいと思います。
②ブランドとしての価値
有名なアーティストには、ファンがいます。その人の生み出したものだから良い(欲しい)、という思い(価値)はAI時代でも残ると思います。
③作る過程としての価値
恐らくAIは人より短い時間で作品を生み出します。人は長い時間をかけて作品を生み出すかと思います。その過程の試行錯誤は人の成長につながると思います。
これは個人やグループの話ではありますが、アートに関わる人は、アート教室なども含め世界中に数多くいます。
なので、アート作成は人類の成長に寄与する=社会的価値を持ちううる、と言ってもよいではないのでしょうか?
いずれにせよ、この質問は、AI時代前の今の感覚にあったとても良い質問だと思います。
AI時代が到来すると、人とAIの共創が生まれ、質問は次のような質問に移っていくと思います。
・人とAIが協業して作るアートは社会的価値を持ちうるか?
・人とAIとの協業アートは、人のアート呼べるか?
・どこからが人の作るアートとして成立するか?

P
ただAIはcheckpointやpositiveやnegativeのプロンプトやVAEによって生成され、入力者の感性により何度も試行錯誤しながら自分のアートを表現しています。私の生成AIの場合は、誰か他の人が実行をクリックしても構わないので、正確には私のアートではないと思います。
人が作るアートは属人性が強いため、誰が創作したかも常用な視点になります。ゲルニカを私が描いても、歴史的背景など何もないので、「なんか大きい絵だな」くらいの価値しかないと思います。創作者がどのようなものを背負い、創造したかが大切な限り、人の創るアートの社会的意義はあり続けるものだと思います。
さんかく
芸術に関しては時間と技法やツールの表現であってリソースが存在する物から作られる今のaiでは価値がつかない

