全てから「自由」であれば不幸にならないのでは?

カラー

愛善院
そうねぇ、頭によぎった言葉でも。
植物は、自己の保存や繁殖を越えて、カロリーを蓄える。そんなもんは植物の自由だ。
それを食う動物がいる。自己の保存のために、できるだけ群れで、ぞろぞろと動く。そんなもんは草食動物の自由だ。
それを食う動物がいる。いつ次の獲物が捕れるかわからないから、追いかけ回し、遥かな距離を走る。そんなもんは肉食動物の自由だ。
二本の脚によって歩けるようになって、二本の腕の先にある果実をもぎとることができる動物がいる。いままで見てきた、どれよりも不自由なのかもしれない。
たったひとつ。
この最後の動物が他よりも自由なのは、誰にも強制されることなく、頭のなかに自由そのものを描くことができることだ。
私たちは、自由を得るために進化した。
海から陸へ。
植物から菌類、あるいは動物へ。
自由へ、自由へ。
ありとあらゆる犠牲をはらいながら。
私たちは有限の肉体に、永遠を望む精神を宿している。
SUZUME
おそらく
『自由』とは
望ましい結果を保証するものではなく、
むしろ
『不確実性を受け入れ、
自分の選択の結果に
責任を持つ能力を意味する』
と思います。
たとえば
2択の選択にあたり、
自分の意思で選択し、
それを外し
災難が降りかかる事もありうる為、
『全てにおいて自由』であっても
不幸にならないとは
限らないのではないかと
考えます。

まるる
仮に最初から全て自由であった場合、自然とその状態が幸せの基準になる為、自分が幸せであることに気づけない
途中から自由になった場合でも、その状態に慣れて幸せといえる水準が自然に上がるだろうから同じことが言える

チャリオ
不幸にならないとは限らない。

オルズベック

らうらか
よって自身を不幸だと嘆くんじゃないかな。。。
自由を追いかけている限りは自由にはなれないと思う。

憂い顔の騎士

レート
『全てから「自由」』っていう文言の全てなるものを明確にできないのが(─自分の力不足を感じて)惜しいけど、1つ言えることがあるとすれば、─人間は生まれながらに不幸者になる定めを持っている。
心理学的・哲学的に共通する見解(*1)の1つとして、幸福とは「欲が満たされた先にあるもの」である。
言い換えれば欲が満たされない状態が幸福のない状態、これを不幸と呼んで良いのかはさておき、欲と幸福_満足と幸福は密接に関わるということだ。
ではここで1つ問いたい。
「人はいったいいくつの欲を持っているのか」
もし仮に、ここでどれだけ少なかろうと複数個あると回答したのであれば、私の言う「人は生まれながらにして不幸者になる定めにある」という意見を受け容れられるだろう。
「生まれながらに不幸者になる定めにある」
人には複数の欲求があるのに、体は1つしかない。この点が決定的に人を不幸に陥れる。
マルチタスクの存在が頭をよぎったかもしれない。だが、あれは高速三角食べのようなもので、処理能力の許容を超えない範疇でタスクの連続的処理を行っているだけだ。決して並列処理ではない。もっと言えば仮に並列処理できたとしても永遠に続けられるものではない。
一時の間に人が集中できる対象は1つでしかなく、果たして、ただ1つの対象から抱えている欲求のすべてを満たすことができるのだろうか。
─不明である。ただし、およそ不可能であろう。
ゆえに、人が抱える欲求が複数あり、人の体が1つであり、人が物事の思考による処理を並列的に_永続的に行えないのなら、人は生まれながらにして不幸者になる。これは定めなのである。
まとめ
①体が1つ=複数の相手ができない
②思考が直列的=複数の相手ができない
③単体の対象=人間の欲の全てを満たせるかは定かでない/おそらく不可能
だから、複数の欲を持つ人間は必ず不満を覚える=必ず不幸になる。
以上
*1 マズローの欲求充足モデル/エピクロスの快楽主義などが幸福の定義を欲求の満たされた先にあるものとしているようだ。ただしアリストテレスの目的論的幸福などはこの定義を共有していないため、必ずしも2学における全体的な共通見解というわけではない。

夏休みの最終日
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