人(あなた)は死ぬのか?
死。まるでそれは又聞きしたもの。─人が死ぬところを目にした?それがあなたが死んでしまう根拠になるのか。
それとも生命活動の物理的な終わりではない「死」について考えますか?
死は生の対義語として扱われるが、実は違うのではないか。
この問いは、そんなニュアンスも孕んでいるかも。

没壱 ヤモオ
今、この瞬間も地球に住む全ての生命は死に向かって歩いている。
あなたも、そして自分もね…
自ら短くする必要はない。
『どうせ死ぬのだから』
大事なのは、
『あの世に何を見出すか?』
『そしてそれを叶える為にこの生命の時間をどぅ使ったかのか?』だと思う。
肉体は死んでも、
魂は死なない、
けれども、思想によっては、無になったり、
闇になったりもするのだろぅと思っています。
ソマチッド

愛善院
「生きる」とは「死につつある」と同義です。

憂い顔の騎士
ポンタちゃん

シズ
この問いには 三つのレベルの答え が同時に存在します。
事実としての答え(自然・科学のレベル)
人は絶対に死にます。
これは現時点では反例がありません。
生物は必ず老化する
細胞は無限に自己修復できない
医学は「死を遅らせる」ことはできても
「死を消す」ことはできていない
科学的には
人間の死は必然。
哲学的に見ると:それでも「絶対」と言えるか?
ここからが本題です。
ハイデガー
人間は「死へ向かって存在する」
死は未来の出来事ではなく、
生きている今この瞬間を規定している条件。
人は「いつか死ぬ存在」ではなく
「すでに死を含んで生きている存在」
この意味で、
死は逃れられない=絶対。
エピクロス(逆説)
死は、われわれにとって何ものでもない
理由は単純。
生きている間 → 死はまだ来ていない
死んだ後 → もはや「私」は存在しない
だから
死を経験する主体はいない
この立場では、
「人は死ぬが、
人にとって死は存在しない」
という逆説が成立します。
では「私」は死ぬのか?
ここで問いは変形します。
「肉体」は死ぬ
→ これは疑いようがない
「意識」は死ぬ
→ 経験的には確認できない
→ だが継続を証明もできない
「私」という存在は?
哲学はここで割れます。
プラトン的答え
魂は肉体と別
肉体は死ぬが、魂は続く
人は死なない
近代以降(デカルト〜現代)
「私」は記憶・関係・言語の束
身体が終われば、それも終わる
人は完全に死ぬ
現代的解釈(物語としての人)
人は
誰かの記憶に残る
影響を与え続ける
言葉や行為が再生される
この意味では、
人は死んでも、完全には消えない
だがそれは
「本人が生きている」のとは違う。
哲学的に一番誠実な答えとして
人は必ず死ぬ。
だが「死ぬ」ということを
自分で経験することは決してない。

はむ
その時まで足掻いて生きてやるよ

シンジ

あずさ
そうなれば生きてはいないので、死ぬ以外の適切な状態を見いだせない

さん
死を経験する事は私達にはありません。
私達は人の死を経験する事はあっても私の死はまわりが経験してくれます。
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