哲学は自分の考えをも懐疑的に考えることだとすれば、「断定」はできないのではないか?と考えましたが、どう思いますか?

たくひら
ただ、一方でこれが「哲学に限らず、すべての科学的言説は反証可能である(≒断定不能)」という意味でしたらどうでしょうか。この場合はポパーの可謬主義で説明できます。つまり「断定」の必要はありません。単に「私は今こう考えているし、これが正しいと実際実感している。が、それが最終到達地点かはまだわからない」と唱えれば良いということになります。
ここまで考えた上での私の答えは、「断定」は哲学的にはそこまで価値を持たない。ということになります。もう少し身軽に哲学を旅して良いと思いますよ。

くま
ただ、
その断定そのものも疑うだけです。

風の音
「思考」→「自分なりの納得(断定)」→「その断定に対する他者や自己懐疑による再思考(深堀り)」→「自分なりの納得(断定)」…と、自分なりの結論のアップデートをすることだと思ってます。
なので、ある一定レベルまでアップデートを繰り返し、その人が納得に満足した時点で“実質的な断定”になると思います。
もちろん、それに対して他説がさらに出たとき、「そういう考え方もあるんだ」「同じ考え方をしているなぁ」と自己断定をアップデートしない(自分のなかで納得済み)こともあるので、実質的な断定は可能と言うのが私の断定です[笑う]

be

セナ
だから自分は思考や思想のあり方を断定したくないし、されたくない。

世紀末覇者ラ王
私は自分を知ること、つまり自己像はどう認識されるのか、という前提をいったん置いて考えています。
それが私にとっての断定です。
文字通り、無限懐疑や無限後退を一度断って、考えるための足場を定める。
これは一般的な断定の意味とは少し違う使い方かもしれません。
もちろん、その自己像の仕組みが真理だとも思っていません。
人それぞれの自己像がある。
では、その自己像はどう認識され、どう形成されるのか。
その仕組みを仮説として考えることも、私は哲学だと思っています。

ユー

あざ
自身の哲学の解釈を世界の真理内にある一つの概念、ないしイデア界に存在する概念的な何かしらであると断言したい(正解があると考える)場合はボケほど難しいですが不可能ではない(ムズいけどできる)と思います。人間が学問として論じる事のできる物は言葉や文字を通した、即ち言語化した後の概念や考え(人が何か考えるときって言葉にするじゃん?)です。言語というソフトウェアは多分な乱数と高度な前提情報共有の必要性を有しており、知覚可能な範囲、定義可能な範囲、思考や論理を積み上げられる範囲は個々人の経験や価値観によって決まるので真理の理解には不向き(話の理解って聞く人や時代、地域によって差が生まれるじゃん。それで答え1個に絞るの無理くない?)です。ただ、もしやりたいなら言語を超越した別のアプローチも視野に入れなければいけないと思います。(もし断定できるなら言葉を使っちゃダメだよね)

Luna

🎮💧

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