哲学は自分の考えをも懐疑的に考えることだとすれば、「断定」はできないのではないか?と考えましたが、どう思いますか?

正宗(ろー)
もしくはその行為自体に楽しみを見出すことかもしれません。
❶私達は、氷の7割は海の中に沈んでいるという知識を持っていないと、海面から顔を出してる部分のみを氷山と認識します。(表面的な観察)
❷氷は水に浮かび、氷山の7割は海の中にあるという知識や認識を得ると、この顔だけ覗かせている氷山の見え方や捉え方が変化します。
(認識の変化)
❸氷山の大半は海に沈んでいる立体物だと認識すると、当然に見る角度によっては形が異なって見えます。しかし、自分の観測だけでは限界があるので、周囲の者と協力することで、より『氷山』の本質が見えてきます。
(客観視点の追加)
❹空中に居る人には空中に居る人の視座で、海中に居る人には海中に居る人の視座で氷山の姿が見えますね。
(立体視の追加)
❺ただ、ここまでやっても内部構造は分かりません。X線や超音波を使って、内部構造の把握まで踏み込みます。
(構造把握)
❻内部構造を把握したと思ったら、実は放射線物質を包含していることが分かりました。
(観測体系の更新による真事実の発覚)
❼つまり、この氷山は、放射線とは異なる原理の、まだ現在では観測できない特別なエネルギーを保有している可能性が排除できない。
(可能性の無限連続)
『断定』は、自分の視座からは、このように見えているという意味では可能だと思います。
メタ認知が強く、因果洞察が高い人の行う『断定』は、“確度が高い”ことを伝えるメタメッセージになっていますね。
逆に、メタ視座が弱く、自分が自分の視座で事象を捉えていて、その観測結果から世界を捉えている人の『断定』は、“真理性”を帯びる断定になると思います。
もしかしたら、そもそも氷山ではなくて、極めて高度に擬態した、地球外生命体の宇宙船だったとしても、その時点の観測体系でそこまで洞察できなければ、その時点では『氷山』と断定されます。
つまり、『断定』は観測体系と時間経過による変容可能性を内含し、正しくない可能性も内含しているものだと思います。
そして、ここまで理解した上で、その人が『断定』しているかはまた別の話になるとは思います。

Luna

loverock67

憂い顔の騎士

愛善院
断定、推定、仮定、あたりにグラデーションがあることは確かだし、学問として誰かの「断定」がすなわち「真」だと常に言い切れるものではないという保留は持つけれども、判断主体を挟まなかったら「懐疑」すら生じ得ないわけで。

you
と言う冗談?はさておき、自分の考えの否定を認めている、否定されるまではこれであると考える

カズ
つまり、確かに間違いないモノを持てる人は少ないという事です。
「絶対に間違いない。」と思えるモノを、幾つ持てましたか?生きている間に。
それが「自信」の正体です。
という事は、人間の意識でどうこうできる話ではないという事です。
としゆき

りな

ナトル
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