知性とは他者のバイアスが“賢そう”と誤認した結果生まれるラベルや集団心理ではないのか?

好笑
そこをどうこう言う前に、他者のバイアスを全て誤認とする根拠を教えてほしいかな。

ヤン卿

グン

〆さば

II
つまりバイアスでも誤認でもラベルでも集団心理でもない。と世の中の半数はそう考え、半数はそう考えることが出来ない。
考えないのではなく、考える事が出来ない。
自己の存在そのものを否定する事は、機能的にリミットがかかっているためそういう状態に陥ってしまう。
物凄く自然の摂理

サイゼの小エビ

バートルビー

シフ
或いは『頭がいい奴を疎んでハブる』集団心理のことを言ってない?
知性自体には他者は要らないと思う。数学のドリルを5分で解けるか3分で解けるかだって、知性の差として明確に表せる。比較対象が過去の自分でも良い。評価軸が多くてややこしいのは間違いないが、評価定量可能なものだよ。テストの点数も間違いなく知性の定量化の1つだ。
それをラベルに『する』ことも出来るし、集団心理で『実際以上に見える』ケースはあるだろうけれど、本質はそこじゃないと思う

ryu
マインドスポーツのように厳密にルールが定められると成績として絶対評価になりますが、マインドスポーツが「知性」の絶対の定義とは言えませんよね。
人の営みの中では、それぞれに役割があったほうが何事も円滑に進むので、皆自分の中に「知性」の評価基準を持って生きているのです。その共通部分が集団心理として現れる「知性」なのだと思います。

カズ
このことに客観性を持たせるのであれば、その文章が何人の人に感銘を与え、動機を与えたかという点につきる。
言うまでもなく、その文章の根底にある考えが変わる様では文章とは呼べない。
文章を書くという人類の獲得した行為は、小学生の作文ではないのだから。
そういう意味で認知バイアスに依存し得ないし、大衆迎合にはなり得ない。
知性とは、人である為の三要件の一つに過ぎないのであって、人である事を諦める材料では無いということです。
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