なぜ多くの人は語りたがるのだろうか?
多くの本や論文で人は聞くよりも話した方が満足感があるというのが定説です。それを踏まえてお願いします。「私はちがう」とか「聞来たい人も多くいます。」は前提からずれるのでやめてください。

ようりーな
共有したい、わかってほしい
認められたい
仮に反論されたとしても
ひとりではできない事だから

すずめ

ひすい
人間として生きる意味だから
ではないでしょうか

はやちゃん

セナ
相手に内容に興味をもって欲しい、
承認欲求を満たしたい、
共通の趣味をとった人と繋がりたい、つまり友達が欲しい、寂しい、孤独から解放されたい。
要は結局楽になりたいだけだと思います。

ノゾ
過去から受け継ぎ、自身の学びを加えて、未来へ送る。というのが人間の主たる機能、それこそが生きる目的とも言える。
それは新技術や発想や業績という大きなものから、少し言葉を交わすことで伝わる印象というレベルのものまで含まれていて、人が語りたいのは「後に残る何か」を選ぶ淘汰の中に自身の学びや発想を投入し、つまるところ生命全体の巨大な営みに参加するため。
言葉も技術も、生殖行為や恋愛に至るまで、全て「伝える」というありとあらゆる生命に本性として宿る衝動による。
衝動というより、物が高いところから低いところへ落ちるのと同じような、単なる自然か。

たか

しん
その問いを聞くと、私は少し立ち止まる。
「多くの人」とは、どれくらいなのだろう。
そして、語っていることと、語りたいことは、本当に同じなのだろうか。
人は、話したいから語ることもあれば、分かってほしいから語ることもある。
伝えなければならないから語ることもあれば、言葉にして初めて、自分の思いに気づくこともある。
反対に、語りたくても語れないこともある。
そう考えると、私たちが目にしているのは「語りたい人」だけではなく、語ることができた人なのかもしれない。
語らなかった人の沈黙は、声にならないぶん、私たちには見えにくい。
そもそも、人が「語る」とは何なのだろう。
言葉にすることだけなのか。
黙ることも、距離を置くことも、何かを選ぶことも、その人なりの語りなのか。
私たちは、語られたものだけを見て、人を理解したつもりになってはいないだろうか。
語ることを考えるとき、私はいつも、言葉になったものの向こう側にある、語られなかったものにも目を向けていたい。

八咫烏

チキン
共感してほしい
自分の価値を確かめたい
つながりを作りたい
頭の中を整理したい
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