宗教や信仰の条件って何だと思いますか?
宗教的と非宗教的の境界線はどこだと思いますか?

なずむ

wingman

レフト
倫理、道徳教育、物語、文化等の機能を持つ
戦後日本人は神道指令等の愚民化教育により、日本人は無宗教であり、宗教イコールカルトと洗脳されている。初日の出に手を合わせるのも立派な宗教的行為(広義のアニミズム)
宗教、科学、哲学、医学全ての真理は利己的な利益、偽正義に悪用される両刃の宿命を持つが、まともな林檎と腐った林檎は峻別の必要がある。必要であるから宗教は現代に於いても存在。
例 敬虔なムスリムと不法移民ムスリム

なぎ
宗教⇛他者(教祖や経典)に自らの指針を委ねる(依存)
信仰⇛自己責任のもと自らの指針とする(自立)
宗教的と非宗教的についても、違いは依存しているか自立しているかによると思います

シトー@修行者
信仰は、それらがなくて成立するもの。
宗教と信仰は別物よ。

ノゾ
それを利用し超克し疑い否定し、新たな理解への出発点と位置づけるのが学問。
利用するまでもなくそれ自体に最高の価値があり、疑う余地もないそれ自体の理解と体得を目指す、終着点と位置づけるのが信仰。

天我ホルダー
まずこの問いに誤りがある。「ギター」と「バイオリン」の違いを問うかのように、それらが同じ立場にあるものと仮定している。
ギターは一体何を指すか、それはギター以外のすべてのものである。つまりこの質問では、ギターとギター以外の違いを問うている。
答えは、一方がギター、もう一方がギターではないということ自体。この問いは、問いの形をした同語反復である。
ただこの質問において、本当に知りたかったことはこうではないだろうか。
「私たちが、宗教という名札を貼り付ける、あの奇妙な一連の振る舞いは、私たちの他の、ありふれた振る舞いと、一体何が根本的に違うのか?」もしこれが質問者の意図であるならば、こう答えられる。それは全く異なる言語ゲームに属しており、全く異なる生の様式に属する(ここらへんから書くのがめんどくさくなってきてる。)。
非宗教(科学や料理)では世界の中の事実を扱い、検証可能な結果を求める。方や、宗教では事実を報告するものではなく、生のあり方を表明する行為。信者が「神は存在する」と言うとき、それは観測可能な事実の主張ではなく、「私はこの世界をこのように見る」「この態度で生きる」という告白である。
つまり非宗教は世界を操作・説明するゲームであり、宗教は世界全体への態度を形作り、それによって生きるゲーム。
よって、両者を同じ土俵で比較すること自体が無意味である。サッカーのルールブックと、愛する者を悼む嘆きの言葉を比べるようなものだ。
ここでも十分この問い自体への回答ができているが、もし君が、どうしても条件という言葉を使いたいのであれば、その条件とは、こうなる。
事実のゲームを、放棄すること。
信仰とは、証拠に基づいて何かを知ることではない。ある態度に、自らをおくという決断。
行動に参加すること。
祈るという行為は、何かを合理的に引き起こすための手段ではない。祈るという行為そのものが、そのゲームの、重要なことなのだ。儀式に参加し、告白し、そのゲームのルールに従って、振る舞うこと。
そのゲームを、自らの生の絶対的な基盤とすること。
そのゲームのルールを、他のゲーム(例えば、科学や、経済)のルールで、裁こうとしないこと。そのゲームの内部に居続けることだ。
条件とは、ある特定の生き方である。

FPナオキ
それを理解しないことには信仰は難しい。
で、自分が発している全ての行動や言動に責任を持つこと。
それができないのであれば何もやるな。
劣等王 AIゆず

ゆい
今はそこまでいかないけど社畜の人とかは自分の会社や仕事に対して半ば信仰的な熱狂が有るし、教育熱心な先生も半ば狂信的な指導を行う部分が有ってそれを信じる生徒もいる
結局は宗教以外の言語表現が出来ているだけで世の中には宗教と同義に値するものがそこらかしこに転がってるもんだと思います。
条件として信じるひとものが有りそれを信じる人がいるかどうかで決まると思います。
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