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第9回歴程新鋭賞、アラブ語圏ゴールデン・プラネット賞受賞。文学博士。ギリシアにおいて日本代表CEOとなる。世界各国で活躍中。
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「獅子吼無畏の説」というのはどっちにどう転んでも宇宙一杯、畏れるものは何もないということです。ただし同じ宇宙一杯のところへゆくのなら死んでからでは遅すぎる。生きているうちに行かねばならない。仏教という宗教は生きているうちに宇宙一杯のところに帰って活き活きと生きようというのが狙いです。生きているうちに宇宙一杯のところに帰らなければ人間の生き方として意味がない。生きている間に「おれが、おれが」という小さな俺の思いで行動せず、その思いを手放しにして宇宙一杯のところで行動しようというのが仏教徒として一番大事な根本精神です。
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永遠の塔

欲望は存在しない永遠の塔だ。生きているかぎり朽ちることのない黄金の命だ。しかし哀しみはやって来る。陶器の破片から、ひとつの水甕が現れる。その水甕にたゆたっている野薔薇の花。さあ、その荒縄の痛みを歌え、すっかり時間に酔いしれて。

今ここにある命だけが確かなものだ。身体の内と外は空気より透明な空虚だ。偶然によって宇宙が痛点を刺激させられた。水垣には藻が色づき、壊れた水車が軋みまわった。少年のむしりとった青い草が水垣を流れ去る迅さ。

この世は常に消えてゆく矛盾した教訓だ。むしろわれわれは矛盾した荒縄を編んでいるのかもしれない。それを編みつづける手の痛さ。不満の風がめぐる塔のまわり。それでもやって来ないように音もなく哀しみはやって来る。見えないものを、聞こえないものを即座に否定することはできない。

金と権力がはびこる歴史。差別と暴力の歴史。それらは決してなくなることのないわれわれの愚かさの塔でもある。無常を説いたところでなくなるものではない。それが永遠の塔だ。われわれの脳の設計図。われわれの遺伝子にさかのぼる欲望の正体だ。

さて、われわれ人間は何をすれば良いのか。何かになりたい欲望の荒縄を解き外すには、何も考えずにいることしか救いはない。死ぬ時には認識の荒縄はその荒縄ごと断ち切れる。永遠の塔の内部は陶器の破片と壊れた水車、断ち切れた荒縄しかないのだ。

2026/01/27




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この頭を手放した思い以上の自己こそ本当の自己なのだと、よく解れば、業障本来空だという。つまり一切を手放しにすれば悪業の障りは消えてなくなる。さもないと「須く宿債を償うべし」で「いままでの業障の借金をすべて返さなければならいぞ」ということです。欲得で生きても墓場が近づいて来るとみんな慌てる。仏法というのはそれを生きている間に思いを手放す。悪業を手放すということです。「飢えて王膳に逢えども」。食べることができなければ腹は膨れない。つまり頭手放ししなければ業障を持ったまま死ななければならない。頭手放しの行がなければ何ともならないということです。救いようがないということです。

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詩の好きな方いますか?
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仏教の一言

「一法を見ざれば即ち如来」。一法を見ないとは頭を手放しにすることです。つまり「自己」という個体が大自然、大宇宙と続いているということです。自分が命なら周りの人も物もみんな命になるでしょう。頭の内容はどんなに親しくっても違うに決まっている。物事の概念も違う。また頭の概念は刻々変わってゆく。だからあの時は仲が良かったのに今は悪くなったりする。頭の内容で人を分けたってだめだ。自分と同じ命なのだからということがはっきり分からなければならない。でも「あの人は好き」「この人は嫌い」という思いがなくなるわけはない。この個体はこの個体だ。私は私だ。自己の思いを手放ししているときだけ思い以上の自己がここにあるんだ。この思いの相対にならない自己、命は宇宙一杯なんです。





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時を打つ
strike the time



八百屋あり米屋魚屋春隣
there are grocery store
rice dealer and fishmonger
next spring
 
冬の萼うちまで枯れて立ち尽くす
winter lacecap hydrangea
standing still
withered to the inside
 
軒先や時雨の滴時を打つ
edge of the eaves
drops of rain in the hour
strike the time
 
春の雪紺屋の暖簾の重く垂る
spring snow
the curtain of a dyer's shop
hangs heavy


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自分の人生をはっきりさせる大事を見失っていればどんなに修行しても風塵の客です。つまり、自分の命がまさしく自分の命であるということをはっきりさせるのが修行です。「俺こそ悟りを開くぞ」と思っているのが二乗や縁覚ということです。これなら「俺だけ偉くなりたい」と頭がぼけているに過ぎません。そんな外れた狙いの修行ならやらないほうがいい。外道というのも「仏法という真実の命から外れた人」の意で「教養のある下劣な奴」のことです。「指を執して月と為す」とは月を見なければならないのに指を見ていると言うことです。これは「命の領域は頭では届かない」ということです。頭で幻想を捏造してばかりいるのが外道です。

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自分の存在価値は他者の評価によって見出すのではなく自分によって見出すんです。「独り自ら遊ぶ」というのは兼ね合いの世間相場で生きるのではなく自己ぎりの自己で生きるということです。上には媚びへつらい下には横柄に振る舞うなんていうのではいけない。叢林では出世しようとか欲得で行動しようとか、そんな俗物どもは去ってしまいます。本当に自己の命だけに生きようという人間だけが後に従います。金や地位という餌に騙されないというのが獅子ということです。「親に仕える如く」というのは無条件、無報酬で仕えるということです。仏像はきちんと坐禅しているでしょう。宗派に関係なく坐禅という姿勢を忘れてはいけない。なぜなら手足口は比較的自分の頭の言うことを聞く。これを閉じた姿勢が坐禅だからです。それでもきちんと宇宙一杯の命ははたらいているということを体得するためだからです。立派な格好をしてその上もっともらしい仏法を説けば正真正銘の妖怪です。
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寒の夜や林檎うつくし恋心
cold winter night
an apple, so beautiful
my love grows deep
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仏教の一言

勝敗を決するなど世間相場で生きているのを獅子とは言いません。自己ぎりの自己で生きるしかありません。生まれて生きて死んでゆくのみです。他に何かあるだろうとわれわれの頭は思ってしまうのが当然ですが他には何もありません。悟りもありません。「自分の存在価値は自分において見出している」というところで生きるのみです。「これでいいのだろうか」と思うことは多々あります。しかしこれも思いです。思いを否定するのではありません。思いを思いとして見てゆくだけです。ただ自分の命の面倒を見てゆくだけです。これが本当に命として生きるということです。それが分かったら何か特別な境地がするんだろうと思うのも幻影です。じゃあ頭なんて必要ないのかと言えばこれも妄想です。頭は頭という一器官として作用していますから。


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他と関わりなく自己にあるのは自己の命だけだということを了解した上で自分の頭の思いを直ちに信じないことが大切です。どんなに辛くても生きている限り辛いのが当たり前です。頭の幻影に悩まされているだけです。どうあっても生きている自己の命です。頭の思いという一器官の思いで右往左往することはありません。金や名利の話は全く関係ないし、仏教で病気は治りません。勝敗もありません。われわれが思って餌になるものは何もありません。それでも疑うことのできない自分の命です。当然、頭の思いは金や名利や健康状態を考えてしまうのが当然です。それでもそれは自己の思いに過ぎません。このことがはっきりと分かることが獅子ということです。
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重たさに吊られて凍てし眠る鐘
the sleeping bell
frozen in silence
suspended by its own weight

打たれては霜を払ひて響く鐘
struck by the beam
it shakes off the frost
the bell resonates

打ち終わり鐘の余韻に寒さむる
the striking ends
within the resonance of the bell
cold winter awakens

僧と鐘一つになりて雪降れり
the monk and the bell
become as one
under the falling snow

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悪い結果になるのはみんなその人の心が行為に移したことなのだから他人を恨んではいけない。怨訴したって誰も身代わりに責任を取ってくれない。自分が生きるということは自分が全責任を持つしかありません。地獄に落ちたら地獄を勤め上げるしかありません。他者が突き落としたと言ってもどうにもならない。他者を恨む暇に、今この状況でいかに生きるのかが大切です。如来とはこの自分の絶対の命のことです。われわれは悪い状況に陥るとすぐに「なんとかして逃れよう」とする。これが一番いけない。そこで精一杯に自己の命を生き抜く姿勢が大切です。結局、自己にあるのは自己の命だけなのですから。
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自分は人の役に立とうともしないで、しかも人から尊敬され、経済的にも豊かで生活したいなんて虫のいいことを考えるから悩まなければならない。虚栄心を満足したいだけなのです。名利や金に価値を見出すなんて魔の所業です。「思いは幻影、行為は現実、結果は化けて出る」。わたしたちはどんな思いでも湧き起こりますが、直ちにその思いによって行動してはならない。行動に移すには充分思い上がりを下げ、よく見定めてからでないとならないうことです。
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愛する勇気 完成版


エヴァは幼少の頃、多くの不幸に見舞われた。さらに多くの差別と屈辱を経験した。彼女は奥歯を噛みしめ小さな拳を握った。彼女はその憎しみをバネにして懸命に学業に専念した。

エヴァは学校では常に首席で奨学金で大学院までゆき、彼女は一流企業に就職した。しかしそこで彼女は躓いた。人間関係に着いていけなかった。世界は冷たいガラスの檻のようだった。彼女はさんざん迷ったあと、会社を辞めた。彼女の表情は固かった。

エヴァは人間不信に陥っていた。彼女は看護師学校に通い、看護師になった。そして癌病棟で勤務することになった。

しかし肉体労働はエヴァには向いていなかったし、職場で同僚に虐められることも堪えきれなかった。彼女は誰かに縋りつきたい気持を懸命に堪えた。次から次へと搬びこまれては死んでゆく患者にも疲れていた。病院の窓から外を見て、毎日を泣いて暮らした。

ある時、エヴァは死にかけている患者の言葉を聞いた。彼らは死ぬまえに必ず自分の罪に懺悔し、多くの人に感謝するのだった。例外はなかった。それを知って彼女は愛する勇気を得た。

エヴァは愛する力の強さと、憎む力の弱さを知った。エヴァは世間の多くの人がそれを知らないことに気づいた。生まれては死んでゆく人間は平等だと確信した。彼女の表情は少しずつ柔らかくなっていった。もはやエヴァは人を憎むことなく愛して生きることに成功したのだった。そしてどんな時にもエヴァはあなたのそばにいて、静かな笑みを洩らして生きているのだ。

2026/01/09
2026/01/11



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われわれは常に頭で真と妄を対立させている。その対立そのものをやめてしまうことが根本です。われわれは真を求め妄を捨てようとする。世間の人々は妄想の中に暮らしている。世間相場はすべて妄想です。いい加減な道徳心ならあるが心から真実を求めるということはまずしない。それで煩悩に苦しみ、その苦しみから逃れるために宗教を求める。坐禅というのは煩悩を押さえ込んで悟りを求めることではありません。坐禅して悟りを得ようなんて見当違いですということを永嘉大師は言おうとしているのです。あれが良いこれが悪いという「おれの見方」というものを止めてしまえと言われているんです。それで「頭手放し」の練習が全てなのです。
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他人と何を競うのですか。自分を相対化させて他者と競って何の益がありますか。自分の命の世話だけで十分なのにあちらばかり気にするのは比較ボケです。それぞれに絶対の自分の命なのに相対化させる煩悩の頭にニンジンというエサを思い浮かべて自分の命をこき使っているだけです。ちょっとできたら得意になる。すぐ正気でなくなる。思いあがる。できる奴をみれば足を引っ張る。競争ボケに嵌っているのです。他者に勝ったって生まれて生きて死ぬだけです。過去の偉人も死んだら自分が偉人だということも覚知しません。みんな生きている人間の妄想です。対象を自分に持ってきて自分が適度に満足すればいいんです。
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仏教の一言

思いすぎてはいけません。胃が悪くない時に胃のことを気にしないでしょう。また曲芸のような修行をありがたがる人もいる。思いは頭の分泌物です。適度がいいのです。考えすぎたら疲れるだけです。思わなければ何でもないことを思い煩ってはいけません。いつか死ぬんだけど今ここに呼吸している自分の命が確かにあるでしょう。人間はどうしても凡夫なんです。人生は生まれて生きて死ぬだけだと決まっているのに他にも何かあるんじゃないかと思ってしまう煩悩のトリックにすぐひっかかる。でも何かいいものがあるんじゃないかと思う。本当に何もないのですよ。人生は苦しい。苦しくない人がこの世にいますか。われわれはただ苦しむだけです。生きているから運がいい時と運が悪い時があるのは当然でしょう。しかし思い通りにならないでしょう。運が良くても悪くても生きているんだ。それなら生きているから安心でしょう。死んだら死もありません。生きているからいつか死ぬんだと頭が思うのです。死ぬ時にはそんな恐怖感も死にます。生死一如ってこのことですよ。

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宗教とはただ自己にとって何が大切なのかを教えるもの。人生というものをはっきりさせるものです。自分の人生をはっきりさせるということがなければ世間の目によく映るように裏表のある生活をするようになります。もう煩悩の虜です。何を修行するのか分からないといくら修行しても全部間違う。「円」とは自分に完結している命、「頓」とは修行しただけやったという実際の修行です。自分という疑いようのない命が仏教の修行によってはっきりと、ああ自分という命だなあと分かる。おれこそ悟りをひらくぞという話ではありません。人はすぐに競争ボケしたがる。「外道」というのは「仏法、つまり自分の命のことから外れた人」のことです。学歴も地位も関係ありません。教養でも学問でもありません。自分が持っていて忘れているこの命のことです
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仏教の一言

時と場所により是と非は変わってきます。だからこれは是これは非と決まったということはありません。確かにわれわれ人間は物事を分別しますが分別を超えた命を生きていることを忘れてはなりません。竜女も成仏する話は『法華経』提婆品にあります。仏教では女というものは罪が重いことになっている。竜女というのは印度の竜族の娘のことで彼女が修行して成仏した。善星が陥墜する話は『涅槃経』にある。悟ったつもりになり迷いに落ちました。お釈迦さまの邪魔ばかりしたといいます。修行の狙いをはっきりさせようということです。
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仏教の一言

仏教の話は宗教的教団の話ではなく自己の純粋な命の話です。円とは自己として「まどかで完結している」「加えることなし」ということです。決して物欲しさや野心の話ではありません。頓とは自己の行として「やっただけはやった」「やらないだけはやらない」ということです。ごまかしはききません。坐禅をするのと坐禅をしてみせるのとは全く違う話です。全く他者とは関係のないことですから人情なしです。それがよく分からないのであれば直接にやって来て文句を言え、「直にすべからく争うべし」です。我を張って人と争うということではありません。断常とは断見と常見のことです。断見とは自分も世界も刻々変化している諸行無常ということです。常見とは因果歴然、原因があれば結果があるということです。これは矛盾しているようですが同時にあるということです。
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愛する勇気


エヴァは幼少の頃、多くの不幸に見舞われた。さらに多くの差別と屈辱を経験した。彼女はその憎しみをバネにして懸命に学業に専念した。

エヴァは学校では常に首席で奨学金で大学院までゆき、彼女は一流企業に就職した。しかしそこで彼女は躓いた。人間関係に着いていけなかった。彼女はさんざん迷ったあと、会社を辞めた。

エヴァは人間不信に陥っていた。彼女は看護師学校に通い、看護師になった。そして癌病棟で勤務することになった。

しかし肉体労働はエヴァには向いていなかったし、職場で同僚に虐められることも堪えきれなかった。彼女は誰かに縋りつきたい気持を懸命に堪えた。次から次へと搬びこまれては死んでゆく患者にも疲れていた。

ある時、エヴァは死にかけている患者の言葉を聞いた。彼らは死ぬまえに必ず自分の罪に懺悔し、多くの人に感謝するのだった。例外はなかった。それを知って彼女は愛する勇気を得た。

エヴァは愛する力の強さと、憎む力の弱さを知った。エヴァは世間の多くの人がそれを知らないことに気づいた。生まれては必ず死んでゆく人間を知った。もはやエヴァは人を憎むことなく愛して生きることに成功したのだった。そしてエヴァは何処にでもいて、どんな時にも笑みを浮かべて生きているのだ。

2026/01/09


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仏教の一言

仏教の叢林では金も名利も求められません。良いとか悪いとかという頭の物差しを取り外しなさい。自己ぎりの自己です。他者とは関係ありません。何も得ることのないことのために何も得るところのない修行をしなさい。それが仏教です。ただ坐禅するだけです。坐禅してみせるのとは全く違います。坐禅ができるうちは何にもならない坐禅をする。それが獅子です。偽の何か得るための野狐の仏教ではありません。自分の考えなどに迷わされてはなりません。仏教を装って金や名利に走る妖怪にはなってはいけません。
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仏教の一言

思いは幻影、行為は現実、結果は化けて出る。つまり自業自得ということです。この言葉を忘れずに何かあれば自分によく言い聞かせた方がいい。直ちに思いによって行動してはならない。よく思い上がりを覚まして、よく見定めてからでなければならない。自分がすべての責任をもつということです。他者を怨んでも仕方ない。地獄に落ちたら地獄を勤め上げるだけだ。しかしここに落ちるような業をつくらないためには如来の正法輪を謗ってはならない。如来とは命のことです。つまりどんなことがあっても精一杯生きるということです。
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坐禅は妄想を片づけ悟りを求めるものではありません。頭のなかには真実も妄想もあります。その真実を求めたり、妄想から逃げないことです。世間の人は妄想のなかに生きていてそれを妄想だと気がつかない。それでもって自分の見方を疑わない。自分の考えは全部自分可愛いさの貪欲、怒り、愚かさでしょう。願いが叶っても叶わなくてもどうでもいいのです。それは自分が死んでしまうという無常から離れている話でしょう。どうでもいいだと思うところがないとおかしいでしょう。どうしたってわれわれの頭は曇るのです。それを曇ったなと思うことが坐禅です。これが仏教です。だいたいみんなが虫のいいことを考え、それをやり遂げることが良いことなのだという価値判断をもっていることが、まさしく悪時世なのです。そしてそんな考え方の人は自分が一生もがいて苦しむだけなのだ。真実の命を見失うこと甚だしく、自分勝手の考えばかりしている。根本的に命を疑い名利や金に価値を見出すということはまさに魔の所為です。
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われわれはいのちを基にして思うときこの世が本当に是か非かあるいは順行しているのか逆行しているのか分かりません。悟るとはある意味で煩悩が煩悩でしかないとはっきり分かることです。と言っても生まれつきの性格は変わりませんし悟っても何か変わることはありません。何にもならない、どうにもならないということだけが正しい認識です。これは決していい加減なことを言っているのではありません。
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仏教の一言

われわれはそれぞれ自己の命として完結しています。頭の中身が何なのかと求めてみてもそれは固定したものではありませんから無駄なことです。何かを取ることも捨てることも出来ません。好きと嫌いを握っているだけです。時が経てば思いは変わります。それでいて命は同じです。何もかも隠すもの、隠せるものはありません。門はひらかれています。もし人が、何が分かったのかと訊くなら、この命の営みとして頭がはたらいているということです。
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仏教の一言

無量無辺、久遠実成という超個的生命がわたしを生かし、あなたを生かしている。呼吸も
心臓もわれわれの思いどおりにいかない命です。命というのはわたしの存在している場所、ここにあってあちらにはない。自己が生きていて全宇宙が生きている。一地具足す是一切地とはこのことです。物質、肉体、心、その行為行状ではない。ただ純粋に生きる態度一つを自分で行なってゆくのが仏道です。仏教は命の法則です。宗教かそうでないかは分かりません。仏道とは命の法則を実際に体得する修行です。ここに無量無辺の命がある。自己の絶対の命がはっきり分かったら出会う物も人もすべて命なのだ。想像できない長い時間も思いを手放せばここにあるのです。
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仏教の一言

仏教とは大人の生き方です。一即一切、一切即一とはわたしという命が天地一杯の命と同じものだということです。われわれの意識はわたしのみが可愛いと思っているだけです。こういう思い上がりを手放ししたところに真の命があるのです。仏教では世間相場で考えれば損しかしません。「損は得、得は損」ということを澤木興道老師が言われた。どういうことかと言うと、貧しい生活をしている人には贅沢な生活をすることは容易だけれども贅沢な生活をしている人には貧しい生活は困難だということです。働くということが労働と勘違いされている。労働というのは金と働きの取引です。これは取引根性というだけのことです。われわれの命は何もしないようでいても働いている。これを働きと言います。損をしなさいというのはただ損をする。見返りが欲しいのは頭という一器官の話です。見返りを求めないでただ損をしなさいということです。損をしても何とかなるのです。よく考えてください。死ぬときは一切合切の損しかありません。われわれは宇宙一杯から宇宙一杯に帰ってゆくのです。これを仏教では帰命と言います。

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あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願いします。
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自己を調整する簡単な方法

仏教では人間の脳は貪瞋痴から出来ていると説かれています。

簡単に言うと、貪欲、怒り、愚かさです。

自分がしていることがこの三つに当てはまれば、反省して止めることです。

特に困った時に効果的です。
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破邪と慈悲はまず自分の思いに与えるものです。そして美味しいものを食べたら皆にお裾
分けしたくなるものです。これを自利利他と言います。雷も太鼓も慈雲も甘露もすべて慈
悲のことです。また修行僧の性格でもあります。竜象とは雲水、修行僧のことです。こう
いう修行僧がいれば皆が発心します。命の力をいつも養い活き活きとはたらいて行き詰まりがない。仏教というのはわたしだけが悟って偉くなってやろうというものではありません。このわたしの実際の生き方の話です。わたしという個的生命もこの宇宙一杯の超個的生命があるから成り立つのです。それをわれわれの頭は自我の思いに思い固めて自分が可愛いと思う。これは幼稚な小人の思いです。思いはありますが思い以上のこの世に思いで量ることのできない命を生きているのです。われわれの頭によって思いあがってはいけません。そういう思い上がりが人間不信から戦争までを起こしているのです。
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われわれ個個の脳の思いというのは思い固められた自我です。われわれ個個の命はそれぞれが天地一杯なのです。自分の思惑通りにいかないのが当たり前ということをよく知っておかなければならない。寿命も分からない。死ぬということも西洋的な理解ではこの世界から取り残されて死んでゆくという感じがしますが仏教では世界ぐるみの私がその世界観とともに消えてゆく。宇宙一杯の命が脳の結ぼれを解いて宇宙一杯になるということですから安心です。その志をもって生きるものを大丈夫と言います。ただわたしとあなたとは言葉という約束事を持ちますが実物の命は貸し借り出来ないものでそれぞれ自己ぎりの自己です。この自我が悪いということでもありません。こういう分かるところまでの分別知見を摩訶般若の力とも言います。言葉で分かることまでは分かる。これが真正の智慧が邪をくだくということです。
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仏教の一言

仏教とは自己の命の教えです。他者とは関係ありません。仏教では信解せよとはよく分かって信じなさいということです。無量無辺の自分の命はこの人間の小さな頭ではとても届かないということを。自分が一生に何回呼吸しているのか分からないし心臓をはじめすべての器官を思い通りにすることもできません。そのことをわかって信じる。考えても仕方のないことを考え過ぎないということが大切です。いま生きている自分の命として頭をはたらかせることが大切です。
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命を鏡に映して何か障りがありますか。よく見なさい。この世に命でないものがありますか。われわれの煩悩という影がかかってもすべては命の風景です。命は天地いっぱいに透きとおっている。だからといっても物事は無常するだけではない。因果はあります。したいことをすれば災難に遭うのは当然です。空がよく有が悪いということも災難になる。溺れるのが嫌で火の中に飛び込むようなものです。たとえ真理であっても妄心と対立する真理をとるような取捨の心がはたらくなら真実をわざと偽ることになる。それを分からずに修行すると煩悩を片付けようと修行をはじめる。われわれは煩悩のお守りしかできないのです。これはよくってこれはいけないという考えではいけません。比較をなくしそれぞれに絶対というところを狙って生きなければ法財も功徳もなくなる。
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仏教の一言

一切を生かすところで世の中のすべての問題を解決することができるのだ。われわれそれぞれのいのちを大切にしてゆくということです。坐っていると分かりますがこの頭というものは好きを握って嫌いも握る。無関心なものは握らない。好きと嫌いを握って地獄から天上までを右往左往しているのです。坐禅のしどころはまずそれに気づくこと。そしてそれを手放しすることです。真実を追いかけても真実は何処までも逃げてゆく。妄想を断ち切ろうとしても妄想は逃げる分だけ着いてきます。このAと反Aの二つはもともとないものなのです。空を摑もうとして不空を嫌うのも同じことです。適度な欲は必要です。足りるということを知ることが大切なことです。
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仏教の一言

思いは頭の分泌物です。大抵の人は思い過ぎなのです。思いを手放ししたら命のそのままが仏なのです。すべての仏教の経典も坐禅の脚注に過ぎません。清い瑠璃という浄土に宝月を含むように今この自己の命というのは自由なのです。西洋の概念の不自由だから自由を求めるということではありません。それなら何処までも自由は逃げてゆきます。確かに自己の命は他の命ではなく自己の命です。この自己の命がそのまま自由だということです。この生き方でゆけば出会うところすべていのちです。意識としての他者はあっても命としての他者など何処にもいないのです。すべて他を生かすところに自己が生きているのだ。
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人の見ていない全く張り合いのないところで、自分で自分を欺さず自分が自分に欺されない。好きなものとして望むものもなく嫌いなものとして厭うものもない。高い低いということのないところでただ坐って何か得るものもない、何にもならない一生を生きる。この何にもならないこと、それだけのために生きる。これ以上の安心はありません。
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人は生まれて生きて死ぬ。われわれは何も持たずに生まれ何も持たずに死ぬ。生きて何か得られるものがあるとか何か功徳があるとかと思っている世間の人にはとても信じられない。何かあるはずだと思う。しかし仏法は何にもならないことをただするだけだと獅子が吼えれば百獣はとても信じられない。二乗、縁覚も威厳を失ってしまう。確かに思いは我が身可愛いさで一杯だし敵は憎い。しかしこのいのちが果てるときには我が身可愛いさも敵憎さもない。もともとすべては頭の思いという夢にすぎないのだから。

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ニューロライツ
NeuroLights

おぞましや他者の心を支配する戦争すでに始まりにけり
how dreadful!
a war
to dominate
the minds of others
has already begun
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仏教の一言

他者の謗りも非難も他人に任せておけばいい。実力があれば誹謗中傷されるものだ。他人の口は火をとって天を焼くようなものでやがて疲れる。わたしは誹謗中傷を聴いて甘露を飲む思いだ。すぐにとけて思いは手放せられる。悪言が当たっているなら改める。当たっていないならそのままでいい。謗られて相手を怨むようではいけない。謗る人を哀れに思って慈悲を与えなさい。一切の作りものに掛からないよう眼の鞘を外してみなさい。妄想を外してみれば言葉はなくても通じます。禅定と智慧を透明にして有にも空にも我にも法にも滞らない。何かの説や思いに滞ったらもはや仏教ではない。頭は所有に執着するが本来は何も持っていない。すべて他者のことでなく自分のことだ。その仏法の極意に到達して分かったのは私だけではない。ガンジス川の砂の数ほどの仏が到達したのだ。
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仏教の一言

自分の物差しを捨てるということです。すべて比較、相対でしかないきみの頭の欲心に他ならないのだから生活してゆけるだけの小欲で足るのを知るしかありません。欲心にはキリがないのですよ。どこまで追っても満足することはなくそのうち寿命がきます。このことが思いのうちにきちんと分かればこころ落ち着いていられる。上士は分かればそれを生活にする。中下はよく分かってもそれを生活にすることはない。ただみずからの間違った欲心を解きなさい。誰だ、外に向かって精進を誇っているのは。誰のためのことではない。

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仏教の一言

信じても信じなくても自分の命は自分の命だ。間違いのない事実のみだ。あるものはある。ないものはないのだ。自分は自分を誤魔化せない。命は自分にあるのに外を探すな。この自分の命こそが仏なのだ。人はすぐに自分が観察者になって他を探す。自分の命には目を向けない。まず自分が煩悩の容れ物であると知りなさい。眼耳鼻舌身意の作用はあるとかないとかいうものではなく信じても信じなくてもある。大宇宙はひとつの明珠で煩悩の比較相対の頭では様々に見える。しかし見えたとおり思ったとおりが本物ではない。みんな煩悩という煙幕の中でのことなのだ。水面の月が本当の月でないと知れば、鏡に映したみずからの影は本当の自分でない。あなたが思うみずからは本当のきみではない。あなた自身は絶対なのだから。他人の評価も同じことだ。すべて測ることができないのだから何に依りかかっても仕方ない。常にひとり行き常にひとり歩く。幸不幸のない命に遊びなさい。


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仏教の一言

実際坐って自分の頭という塵鏡を手放しにしてみなさい。どんな思いが頭に去来するのかよく分かるはずです。欲ばかりでしょう。無念無想になりますか。生まれたことがないのですか。生まれたことがないなら生きるにあたってあれこれ思うこともないでしょう。パソコンを持ってきて問うてごらん。仏を求め功徳を施せばいつ仏になれるかと。命を持っているのにまだ何か欲しいのですか。自分だという思いをすべて放って捉まえてはならない。分別の止んだところに随って生活してごらん。何もかも常なるものはなく本当はすべてないのだ。すなわちこの世界一杯命でないものは何もないのだ。
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本は沢山読んだ方がいいのか?そこそこがいいのか?読まない方がいいのか?その理由もお願いします。理由ないと意味ないですからね。本は沢山読んだ方がいいのか?そこそこがいいのか?読まない方がいいのか?その理由もお願いします。理由ないと意味ないですからね。

回答数 22>>

読むべき哲学書の多寡は人により違います。
多くは哲学愛好家で恐らくここには哲学者はいないと思われます。
哲学をする、哲学者になるのであれば、哲学のルールをきちんと把握した方が良いと思われます。
例えば、哲学の前提は二人以上の世界というものがある、としてでの考察です。私は下手の考え休むに似たりだと思っています。
哲学哲学
GRAVITY33
GRAVITY6
太郎

太郎

瓦解
a collapse



ぼうたんの瓦解といふべき崩れ方
the peony
It should be called a collapse
the way it crumbles
 
うすものの雲に見えざる春の星
in silky clouds
invisible
the stars of spring
 
ゆく春や声出でぬまま電話切る
the going spring─
without my voice
hang up the receiver
 
春雨や空くらく光り路に音
spring rain─
the sky glowed darkly
noise in the street
 


GRAVITY
GRAVITY6