死者と生者が、その境界も曖昧にみだれあい、並存している町について書いた『ペドロパラモ』というメキシコの小説があるけれど、坂本慎太郎の新譜に「ゴーストタウン」という曲があった。歌の最後で「道を歩く人がこちらを見ているが 誰も僕のことは見えない」と、見えない側が反転するところとか、『ペドロパラモ』の実は土で埋まって、おばあさんと会話をしていましたって箇所を連想させる。ぴあのインタビューで行ってみたい国にメキシコがなんか気になるとあげていたし、『ペドロパラモ』読んでるのかな。(僕の好きな『ペドロパラモ』のAmazonレビュー 「私の友達もこれを機にメキシコへ飛んだ!!」←すごい)
お腹を空かせて家に帰って、とりあえずパンにクリームチーズを塗ったのにかぶりついた。パンのカスがぽろぽろと机に落ち、スピーカーのあみあみにクリームチーズが飛び散った。どうしよう、と拭ったものの小さい穴にクリームチーズが詰まってしまった…爪楊枝でほじくってみてもきれいにほじくり出せない……しばらく時間が経ち坂本慎太郎の新譜を聴きながら何気なくボールペンの先でほじっていると、固まったクリームチーズはさっきよりかはほじくり出しやすくなっている。
通りかかった公園の藤棚には蛍光黄のテープが張り巡らされていて、入れないねェと下校途中の小学生3人組が入口で立ち止まっていた。いつもは園内を横切って、それが彼らの家への近道になるらしい。立ち入れないのは、藤棚の下のベンチだけじゃ、と思ったのだけど、50m先の茶色い物体を丸太か寝転んだ猫かわからない目玉なので、地味な色のロープが他に張ってあったのかもしれない。「こっち行けば、あっちの道につながってるよ、その方が長く話せる」と一人が二人を促して一団は歩いていった。一体どんなことを喋っていたのだろう。
まぶたの裏側に展開された、まだわたしの血液型さえわからなかった頃、日曜日になるとウチの隣りの家にベルファイヤで来ていたホノカちゃんとクリーニング店のドアの隙間から噴き出る安心するスチームの香りをすいながらお医者さんごっこをしていた我々を照らしていた太陽の黒点
金なさすぎて本を売りまくっている。これを機にしばらく読みそうにない本とか再読しない本はもう手放してしまおう、本棚に収まるサイズに蔵書を保つようこころがけよう、本棚の心身代謝…そうすれば、本当に必要な本だけが残っていくはず…
年始年末の体調不良から回復したら一気に読めそうと『失われた時を求めて』だけを一日読んでて、「ソドムとゴモラ」の生者が死者(祖母)を思い浮かべることの不可能を突破するとことかすごいと思うのだけど再びバルベックに戻ってきて、晩餐会に明け暮れるとこを読むのがしんどい、というかいつも晩餐会のところで停滞する。誰が喋ってるのかすぐ見失う、人々の話す圧が体に押し込まれる感覚になるのは、人いきれが熱くるしい場所での会話を正確に描写してるのかもしれないけどよくないライブハウスの打ち上げとか思い出す、がまんして読めば処世術として機能するのかもしれないけど、無理に読むことは『失われた時を求めて』が持ってる権威に与すると思うし、今まで重要だと感じた小説を再読しながらにしよう
書きあぐねていた手紙を書ききることができて早速投函しに、郵便ポストまで畑に挟まれた細い道を歩いていると、「みて、ひまわり!枯れてるねえ、また来年咲くよ」と後ろの子供に話しかけている母親の自転車が通り過ぎた。今は夏とは真逆の季節にあるというのにひまわりと映る形を保っている枯草は大したものだ。
もしアルプス一万尺をするとしたら、ランランランランラン、ヘイ!のヘイ!の部分が恥ずかしいので、極端に大声で叫ぶとか、ホイ、とあまり恥ずかしくない言い方に変えるだとかそういう工夫をしてしまうだろう、同じような恥ずかしさを抱いてる人には、私のヘイ!の対処法が見透かされるだろう、そういう耳で今日通りがかりの子供たちがしてるアルプス一万尺に聞き耳をたてていた、ら、そんなことに恥ずかしがる気持ちがわからない人々によるヘイ!が耳を通り抜けた
今日、丸太なのか猫なのかわからない物体があるアパートを通りかかると、昨日と同じな物体が転がっていたので丸太なのだろうと判断し、柵にはあんなに尾が長かったっけと驚いた鳥の名前が思い出せなくて、セキレイのSek…あたりまで思い出したところで飛び立って、左隣の家の木に止まった屋根や電柱の周りをセキレイたちが羽ばたいていて、どの尾も長かったので、あのセキレイが特別なのではなく、セキレイの尾は私が思ってたより長い。
ぼくの投稿が更新されるのを楽しみにしている誰かの自分にむけて、最近近所に生き残ってるレンタルショップを見つけて、そこで気になって溜まってた昨今の漫画を借りまくってるついでに、copeで夕食を買うようになって、copeの店内BGMはとてもスーパーマーケットしていると感じたことを伝えておきます
この本の中に入っている『第七』という小説は、7回の人生を経験する男が出てきて、ハーディやフランという親密な人々と(男からすれば)、7度出会うことになる。ハーディやフランのようにもう一度、(自覚はなしに)、この「私」として生きることになっても、この小説を読みたいほどよかった、と褒めるほど巨大な一冊ではないけれど、複数の少々異なった「私」全てを記憶している何かがあるのだとすれば、この小説は何度目の人生においても存在し、「私」は読まざるをえない。気づけば向かっているもの、それへと突き動かされていく遅く、なだらかな力。もう一度まっさらな地にビジョンを建設したい(し直すのではなく)という欲望。それらが大江健三郎を頭に腫瘍を持って生まれた障碍児を何度も何度も書かせ、サリンジャーを何度も何度もグラース家へ向かわせたのではないか。