
のびた
東京
映画
読書

のびた
ポテトのパッケージ内側の視覚効果の黄色い線の印刷がなくなっていた。
経費節減なのか…
世知辛し。


のびた
帰り道、小銭がポケットでちゃりちゃりと揺れる中、ふと思う。
昔、子どもにとって
貴重な財源のひとつであったものが失われつつある。
お父さんのポケットの小銭である。
かつて子ども達は、帰ってきたお父さんのポケットに残っていた小銭を時にお母さんには内緒で財源としたものだ。
世知辛い世の中ゆえに
小銭で買えるものは少なくなってきた。
手のひらの中に100円あれば無敵だった時代は昔々あるところに〜に匹敵しつつある。
それでも
子ども達が
お菓子コーナーで苦慮し、
締め切り前の作家のごとく思案に耽っている姿は
微笑ましいものである。
10の単位端数切り捨ての矜持。
ズボンのポケットの中にあるさらに小さなポケットが嘆いている。
うっかり混ぜてしまった100円はボーナス!
子を持つ親達よ、
今こそ
電子マネーをやめ、
札をきり、
小銭をポケットにいれ、
子どもに貯金箱を与えよ!
ちなみに
お母さんは小銭をポケットには入れない。
変な角度からフェミニストに怒られそうではあるが。
あくまでも個人的な記憶の中のイメージなのでご容赦いただきたい。
仮面ライダーBLACK RX

のびた



のびた
以前は改札前にいる
いくつかのカップル呪術者による領域展開が乱立していた。
飲み込まれるのよう
弾かれぬよう
手刀を切りながら「サラリーマンがあいすみませぬ」と通り抜けたものだ。
時代の流れなのだろうか。
掲示板のXYZがポケベルになり、PHSになり、携帯になり、スマホになり…
と段階的に進化してきたのと同様に
去り際の切なさや離れ難さは
何かに置き換わったのだろうか。
溢れるエンタメに
手の中のエンターテイメントにより
以前に比べると人が恋愛にうつつを抜かす時間が少なくなったのかもしれない。
変化は時に
互換性のある変化ではなく
別のものに取って代わられることもあるだろう。
それは
カップルの必中必殺に限らず
読書の時間や
家族との時間や
勉強の時間や
様々なものが
様々なものに
やってやられてやりかえされて
リバーシが忙しい世の中である。
時間は限られている
何に使うのか
アモーレ。
ミ・アモーレ [Meu Amor E...]

のびた
布団に行きたくない。

のびた
切なさ極まって
ふらりと外を歩く。
適度な寒さ。
コンビニでおでんが売ってればいいなと思ったけど、まだ売っていなかった。
もう売ってて良いですよ?
昔バイトしてた頃は夏以外は売ってたような記憶もあるんだけど、気のせいかな。
写真は
昼間に公園で見つけた
誰かが作った
キッチン◯◯


のびた
考えると言う行為は、頭の中で「言葉」を使って、整理したり、並べ替えたり、ぶちまけたり、ぶん投げたり、ぶっ叩いたり、愛でてみたりしているわけだ。
誰かに相談すると
そこに自分の頭の中からは出てこなかった「言葉」や「概念」が入り込んでくる。
それは停滞する思考にとっては
時にありがたく、時に厄介なものだ。
歴史上では
宗教や技術が新たに輸入されると
それらは自然発生するよりも早く
強制的に開花させられることになる
時にそれ以前以後の狭間では
古きを守る人と振興者により軋轢が生じる事もある
結果、どうなるかは
歴史に証明されている気もする。
自分は人に相談する事が苦手だ。
基本的には自分でなんとかしてしまおうと抱え込む。
よくもまぁ、ここまでやってこれたものだとも思う。
だからと言うわけではないが
時折現れる強制的に扉をこじ開けにくる人に惹かれてしまったりする。
不可侵領域に土足で、竹槍を手に突撃してくる人が嫌いじゃない。
ザビエルを活版印刷を扉を閉ざして待っているのだ
1人でいるのが好きなのに寂しがり屋
と言う人は同じような気持ちではないだろうか?
ただ、わがままなもので
「でも節度は守ってね」
と言う但し書きを張り紙として入り口には貼ってある。実に厄介。実に傲慢。
ぐいぐいと上がり込んで来た人に
なに?今忙しいんだけど?
と口にしながらも、お茶菓子と座布団を用意する。
チラリと手土産に目をやり
ワクワクする始末。
実に面倒。実に偏屈。
土産物を気にいる事も珍しい。
結局は自分の考えに固執してしまう。
新陳代謝が必要なのは理解しつつも
なぜ、その場から動けないのか。
それは
恐怖と怠惰
に尽きる。
こうしていろいろ言い訳をしつつも
感情が自分をがんじがらめにしているのだ。
「雁字搦め」
何気なく普段使っている言葉も
文字にすると別のものが見えてくる
漢字にすると團鬼六のなにがしかにも思えてくる。
「雁字」とは雁という鳥が列になって飛ぶ様子だと言う。
それが縄や縦横に巻き付いている様子に転じて、「がんじがらめ」。
だそうで。
はてさて、あなたの頭の中にあった「がんじがらめ」はどうでしたか?
あなたの国の輸入の一助となればこれ幸い。
エジソン

のびた
ただひたすらに文字を打ち込みたくなっただけで
ジョジョ~その血の運命

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のびた

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インターフォンが鳴った。
もちろん、そんな時間に訪れる客もいない。
何事かと恐る恐る出ると
そこには
老婆が、いた。
深夜の来方はそれだけで少し怖い。
お婆さんと言うのは
怖いと言うよりも不気味さが増す。
80〜90歳くらいだろうか。
白髪の小柄な老人。
ざわざわとした胸で
対峙する
小さな声で何か
もぞもぞと聞こえる
よくよく聴いてみると
「◯◯先生の…ところに…」
「◯◯先生は…?」
「◯◯先生のお宅ではありませんか?」
…と
探している家(◯◯先生)が見つからなくて
困っている、という様子だった。
昼間であれば「ここではないですよー」
で済むのだが
時間が時間である。
おそらくは
徘徊。
警察に連絡して
保護をお願いする。
話では聞く
その行動を目の当たりにして
ぼんやりと
親を思う。
将来の自分を思う。
長生きはしたいがしたくない。
墾田永年私財法 feat. 田ンボマスター

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知らんよ!勝手にやってくれたまへ!
🙈🙊🙉
One

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一息、座ったら
立てなくなってしまった

のびた
いわゆる消波ブロックの役割は波のエネルギーを減衰・消散させ、海岸線を守っている。
この年齢になると知らず知らずのうちにそれを重ねてきている。
場所によっては必要以上に。
そうしないと耐えられない事が多すぎるのだ。
簡単に設置できる事を知り、
効果を知り、
安心を得た。
ただ、このブロック、
美しい海岸線の景観をひどく損ねているとの批判もある。
確かにそれらが鎮座する海岸線は見慣れてしまった風景であり、
すでに記憶の底にある海岸の原風景としても、そのブロックはしっかり存在している。
むしろ、それらがない方が作り物のようにさえ思える節もある。
だが、やはり大きすぎる「異物」ではある。
しかもそれが無数に乱雑に置かれている。
設置前の昔の写真を眺め、今のそれと比較すると
当たり前だと思っていたその歪な安心感でボコボコとした海岸線は
ひどく不格好である。
荒れ狂う酷い波ばかりではない
心地よい波もあるだろう
それらを問答無用で消散する。
安心は何にも代えがたい。
産まれたままの姿ではいられない。
美しく着飾るのか
堅固な鎧を身に纏うのか
それとも
自分はこの着慣れた鎧を脱げるのだろうか
ちなみにaikoが登っていたのは「テトラポット」であり「テトラポッド」ではない。
ボーイフレンド

のびた
どこでもドアがあれば!
昔は良く聞いたものだが、最近耳にしないのは自分が大人になってしまったからだろうか。
コロナを経て、リモートでのコミュニケーションが一般的になった。
それ以前にもテレビ電話はあったが、
テレビ電話は合うための代替手段というよりは
「電話なのに顔も見えちゃう!」という印象だった。
ネットワーク上でのリモートが
会うための代替手段として広く認識されるようになったのは
最近なのではないだろうか。
声フェチである私にとって極、個人的にではあるが、
電話とテレビ電話は全くの別物だ。
夜中ベッドに転がって朝方まで何というわけでもない会話をしていた記憶
その時耳を通して伝わってきていたものは
テレビ電話では得られないものだった。
神経を耳に集中し、ただ一つの穴から
ただ一つの器官でそれを自分の中へ浸透させてゆく。
美味しいものを口にしたとき
つい、目を閉じて咀嚼してしまうそれに近しいものがある。
種々のSNSが跳梁跋扈し
人と人との交わりが複雑怪奇に入り乱れる中で
ネットワークを介した交流は隆盛を極めている。
しかし
そこにはやはり
「会いたい」と思う感情が存在する。
「会いたい」
ご存じの通り文字を紡ぐのが好きである。
実際に口に出して会話するよりも
おそらくはこちらの方が得意であるくらいに、
実際のコミュニケーションは不得意である。
声フェチである。
先に書いた通り、耳からの摂取を好む者である。
だが
それでも
人に「会いたい」と思うのは何故なのだろう。
文字で伝えるよりも
耳を溶かすよりも
人に相対したいと思うのは何故であろう。
会うための代替手段である
テレビ電話ではダメなのは何故であろう。
苦手であるのに。
もちろんそこには
「触れたい」という抗い難き感情があるのは確かだが
それ以上に現実感を、リアルさを求めているのではないか。
相手の存在証明は自分の存在証明足り得るのだ。
そこにいること、が重要だ。
近い未来、VRであたかもそこにいるかのうような会合も可能であろう。
ただ、やはり
どこでもドアには敵わないのだ。
子どもの頃よりも必要なのはむしろ大人になってならなのだ!
たすけてー!
ドラえもぉぉぉぉん!

ドラえもん

のびた


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このままと言うわけにはいかないんだ
分かってくれ
このままじゃ僕はどこにもいけない
チャージ
するよ…

真夏の果実

のびた
人はそれぞれ自分の琴線に触れるものがある
時に人はそれを「フェチ」と呼び
時に人はそれを「推し」と呼び
時に人はそれゆえに恋に落ちる
「推し」と「恋」の違いについて書いて!
そんなリクエストがあったので
考えてみる事にした。
それはベクトルと存在空間の違いだと思う。
どちらに対しても
尊敬や憧れや好意が向けられるものではあるが、「推し」はどこまでも一方通行であるのに対し、「恋」は双方向への発展が期待されるものである。
「推せる」その気持ちに双方向への期待を膨らませてしまった時、それは「恋」となる。
見返りに同じ感情を求めてしまう。
同じ待遇を求めてしまう。
独占欲や嫉妬心はひとつの指針となり得るだろう。
ただ、人によりその程度が極端に違うので判断の根拠にするにはいささか不安定だと思う。
そして
「住む世界が違うから」でお馴染みの「存在空間」
往々にして「推し」は自分のいる世界とは違う世界にいる事が多い。
画面の向こう側や舞台上や、インターネット越しに。
手の届かない存在だからと思い、「推し」となる。
身近な存在であった場合どうだろうか。
同じ職場に、隣のクラスに、目の前に。
そう存在している人を「推し」のままとして思えるのか。
そこには「諦め」で
コントロールされている何かがある。
「推し」の存在をその息吹と躍動を肌で感じる事ができた時、それは「恋となる」。
そう言う意味では
アイドルの握手会なんかはギリギリを責めている。
「推し以上恋未満」だ。
「推し」を「恋」に変え、片想いを強いるのだ。
そしてご存じの通り
「恋」と「愛」はまた別の何かであるように
我々は似て非なる様々な感情に名前を付け分類してきた。
それらはきっちり区別されるわけではなく
それぞれ重複している。
つまりどちらでもあり得るのだ。
それゆえに
人は感情を履き違える
感情に明確な線引きはなく
今までの経験則から
自らが「キミに決めた!」で定義している。
俺はコイツと旅に出る状態である。
自分の抱えているこの歪な何かは
いったいなんだろうか。
経験値が増えれば分かりやすくなると思いきや、若いころは「恋心だ!」
と一直線だった道がやたら色々な道が見えてきたりする。
「推し」「恋」「執着」「尊敬」「家族」
etc…
この歳で恋を語るのは歯痒いが
老いらくの恋とまではいかないまでも
自分とてそんな瞬間がまだある。
思いがけずそれを手にした時、これはいったいなんだろうか…と考え、
この年齢になるとつい、面倒が起こらない方にコントロールしてしまいがちだ。
が、それで良いのだろうか?
その感情への名付けはそれで良いのか?
「推し」か「恋」かはたまた別の「何か」か
感情の底を
覗き込むと
混沌である
尊敬憧憬好意恋愛執着粘質嫉妬憎悪破滅
蠱毒の壺から這い出る
毒の始皇帝のような感情が我々を蝕み、傀儡とされた我々はただひたすらに過ちを繰り返す。
そうして
大人というものは
人に溶けるのだ。
君は天然色

のびた
10分だけ寝ます…💤

のびた
夏夏パピコ夏
パピコパパピコ
夏夏
ピコパピコパコ
夏
暑さでおかしくなったわけではなく
夏のパピコがそうさせる
外でパピコを1人で食べる時
2本じゃなくて1.5本サイズのがあれば
もう少し溶けずに食べられるのに…
って思ってたんです。
その悩みが
今日、解決しました
すれ違った
同じくパピコ愛好家であろう
知らない小学生
2つとも
口にくわえてましたよ。
ダブルパピコ!
パピコダブル!
自分の頭の固さ
固定概念に愕然としつつ
心の中で彼に賞賛と拍手をしながら
恥ずかしげに
ダブルパピコをするおじさんです
夏ですね

運命船サラバ号出発

のびた
これから台所の野菜を処理する。
子どもは明日も6時には起きるだろう。
気を抜くと泣いてしまいそうになる。
もう大分おじさんなのに。

のびた
色
メーカー
履き心地
とかそう言う事が聞きたいわけじゃないんでしょうね。自分も持っている洋服に合わせてうんぬんかんぬん…。
「うんぬんかんぬん」ってなんだ?
調べてみると
「うんぬん(云々)」は元々は仏教用語らしいですね。以下略という意味で使われていたと。
では
「かんぬん」は?
ただの語感補填。リズムがいいから…だと?
じゃあ「そんぬん」とか「しゃんまい」とか「ぜんせき」やら「ぱふぱふ」でも良かったという事なのか…(個人差あり)?
このあたりは現代の造語と同じく言ったもの勝ちの世界ですね。
靴を選ぶポイント?
ああ、サイズですね。

のびた
季節の「らしさ」を考える時
様々な思い出が
個人個人の「らしさ」を形造り、彩るのだろう。
季語になり得るようなものだけではなく、
ほんの些細な出来事こそが
その人の季節をらしくするのだ。
さて、夏。
暑いと言うのはもちろんなのだが、
ありし日の夏に思いを馳せる時に
記憶の底から湧き上がってくるのは
どちらかというと
暑い中に感じる涼感ではないだろうか。
朝のラジオ体操
縁側のスイカ
プール前の消毒槽
風にくすぐられる風鈴
器を泳ぐ素麺
カラリと鳴るグラスの氷
薄まったカルピス
静かに落ちる線香花火
酷く暑い中、
ふと暑さが和らぐ瞬間瞬間
その景色や音や匂いが脳内にキラキラと焼き付いている。
もちろん
暑い中の暑さにも
馳せる思いはあるわけだが
青い空光る海
熱くて歩けない砂浜
恥じらう水着
忘れた日焼け止め
見惚れる浴衣
汗ばんで繋ぐ手
混み合う花火会場
並ぶ焼きそば
始まる花火
声を荒げる彼女
打ち上がる花火
切れる鼻緒
背負う彼女
途中で休む私
キレる彼女
…
思い出に涙はつきもので。
さて、夏。
真っ只中。
楽しめてます…か?
夏色

のびた
伊坂幸太郎登場以降、伊坂幸太郎に憧れた人が書いたような印象を受けてしまった。
オススメ度:★★☆☆☆
伊坂幸太郎だからと思って読むとなんとなく物足りない気がしてしまう。ドストエフスキーで誤魔化さずに中心にすえられているであろう重めのテーマにもう少し向き合って欲しかったかなと。


のびた
1)反応を見て揶揄っている場合
世のおじさんの大半は寂しい生き物です。「な、なんだよ!?」と言いつつも心の奥底では喜んでいたりします。褒め言葉が一定量に達すると(個人差あり)、おかしな行動をとる事があります。そっとしておいてあげてください。
2)人を待ち構えて投げかけてしまった場合
世のおじさんの大半は凄く寂しい生き物です。「お、おう!?」と言いつつも心の奥底ではニヤニヤしていたりします。褒め言葉が一定量に達すると(個人差あり)、極端な行動をとる事があります。できるだけ間違えないであげてください。
3)本気で可愛いと思っている場合
世のおじさんはすべからく寂しい生き物です。「からかうなよー!?」と言いつつも心の奥底に隠しきれないニヤニヤが出ています。褒め言葉が一定量に達すると(個人差あり)、長めの過去の栄光話が始まります。冒険の準備が出来てから話しかけましょう。

のびた
一見涼しげではありますが…頭に思い浮かべるのは温かいもの暖かいもの…
そう、地味な拷問です。
ホッカイロ
炬燵
ヒートテック
鍋
まさか真夏にこんな事を考えさせるなんて。
ドSの才能がございます。
さて、欠かせないともなるとなかなか難しい。
無くても耐えられなくもないから。
考えた末に浮かんできたのは
「人肌」
欠かせないんですが
欠けてます。
でもこれはアイテムじゃない。
人を物として見るなんて!つて怒られちゃう。
そうすると次点て
「ホットコーヒー」
というなんとも無難な回答に落ち着きました。
悪しからず。

のびた
とても疲れた。
SNSであれば
「おやすみなさい」
はきっと誰かの目にはとまるさ

のびた
もちろん本気でそう思っている時もあると思いますが、「一緒にいると落ち着く」のは「好きだから一緒いる」と同じくらい当たり前の事で、前提なんじゃないの?とも思います。何を最高の褒め言葉と受け取るかは個人個人で違うとは思いますが、「最高峰」を目指すのであれば、もう少し、個人的なオリジナルな部分を褒めて欲しいものです。例えば「君のその笑う時に少し出る前歯を見てると昔飼っていたウサギを思い出して幸せな気分になるよ」とか。って言う女性にモテた事がなさそうな男のような回答。

のびた
アナゴ甘エビしめ鯖スズキ
ホタテあわびに赤貝ミル貝
かつおカンパチうにイクラ
ええ、そうです
スシ食いねェ!です。

のびた
かく言う自分もその一人である。
そらで歌えるくらいには聴いていた。
ミスチルですからね。
あの頃のモテたい男子は聴いてましたよ。
が、久しぶりに歌詞を見てみると
歳を経て歌詞を見てみると
この歌の彼、「そりゃフラれるわ」と思う。
自分本位で彼女へのリスペクトが全然ないのである。
昭和男子とかそう言う感じでもない。
空気読めない感があるのだ。
〉何も語らない 君の瞳の奥に愛を探しても
読み取れなかっただけでは…
〉"言葉が足りない"そうボヤいてた
信号もろにだしてるじゃない…
〉いざとなれば 毎晩君が眠りにつく頃
〉相も変わらず 電話掛けてやるなんて
〉まるでその気はないけど
この辺りは中高生感があるし
〉分からなくなるよ
〉男らしさって一体どんな事だろう
君が知るべきは男らしさではなく、女心である
〉いつか街で偶然出逢っても
〉今以上に綺麗になってないで
まぁ、独り言だし、気持ちはわからなくもないが、ないが、である。
と、ツッコミ始めれば 枚挙にいとまがない。
よくこの歌で浸ってたな…と思う。
本音なんてそんなもんだろ?
と言われればそうだし、浸っていたのは中高生の時だし、
ミスチルが歌ってたんだし
仕方ないよね!
今もし失恋したら
自分はなんの歌で浸るんだろう。
ぱっと思いつかないのは
失恋とかそういう色恋から離れすぎてしまったせいだろうか。
Over

のびた


のびた
さて、サプライズ。
これは相手からのプレゼントの一部ではあると思うのですが、喜ばせてあげようと言う思いの仮面を被った自己高揚手段である場合が多い印象です。そのサプライズ内容は本当に相手のためを思ってのことなのか、独りよがりの演出ではないのか。その点はきちんと熟慮した上で計画を立てることをオススメいたします。
とかなんとか…言ってる事は分かるんだけど…ちょっと嫌な感じの人風に回答してみた。

のびた
ホラーに擬態した別の何か。
オススメ度:★☆☆☆☆
エンタメにしようとしたせいか、ホラーにメロドラマ的なものを混ぜたせいで台無しである。


のびた
恐ろしい事に気がついたんですが…
どうやら
自分は
素麺が
あまり
好きではないようです…
どうしよう
この夏
まだあと
2ヶ月くらいは夏ですよね
乗り切れるのか…
楽園ベイベー

のびた
道に転がっているそれは、目立つからよくわかる。
警告色、それは生存戦略だという。
そして、警告色は派手な色が多い。
例えば人はスズメバチの黄色と黒を見ると恐怖を感じる。
転じて、その警告色は踏切や工事現場で危険信号として使用されている。
ただ、黄色+黒色の組み合わせに恐怖を感じるというわけではなく
黄色+黒色+ハチ=警告
と、あくまで「ハチ」であることが重要なのだと思う。
この組み合わせによる恐怖は本能的な部分よりも
学習によるところが大きいように感じる。
あの色の虫は食べたら毒がある
と言うように。
であるならば、それはある程度の犠牲が前提となっており、
「個」としての生存戦略ではなく、「種」としての生存戦略だ。
普段、「種」を意識する事はあまりないと思う。
あくまで「個」が多い。
ある程度のまとまりとしては家族、親族、地域、国、ここくらいまでが意識できる範囲だろうか。
無意識に行っている生存戦略もあるだろう
上司への愛想笑い
とあるサイトの閲覧履歴の削除
スマホのロック
もその類いだ。
でもそれは「種」としてではなく「個」としての生存戦略なのかいや人間は個々が波風立てずに平和に暮らす事で種を守っていると言えなくもないのだからこれはこれらは必要な事であり立派な純然たる「種」としての生存戦略ですええそうです。
ちなみに
スズメバチは死んでもまだしばらくは針を出す可能性があるらしいので素手で触るのは控えた方がいいと言う事を素手で触ってから知りました。
皆様におかれましてはお気をつけくださいませ。

少年よ我に帰れ

のびた

のびた

のびた

のびた


のびた
食パンをくわえた少女がその子のその後の人生を左右するであろう人にぶつかる。
長いので「角パン」と呼ぼう。
出会いはいつも突然だ。
人と人の出会いに限った事ではなく、
何か自分の人生を左右するものに突然出会う事がある。
角パンもミーム化されているが故に、第三者の目から見れば衝撃的ではあるものの、実際には取るに足らない日常の一部であったりもする。
そう、出会っている事に気がつかないのだ。
自身の人生を左右する何かに。
日々の些細な取るに足らない出来事も
いつか、自分の人生で大逆転の伏線回収が待っているのかもしれない。
変わらない日常、何気ない出来事
それは君の角パンかもしれない。
恋の呪文はスキトキメキトキス

のびた

ココロオドル -original version-
