
さぶぼたにかる
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さぶぼたにかる

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狭義の投資(金融商品等)
健康(主に心、身体)
人間関係(家族、友人、恋人、新たな人脈等)
知識(経験知と狭義の知識)
に分けられる。
これらへの投資によって更なる余剰資金が生まれ、また余剰時間も増えていく。(例えば、健康に気を遣うことで将来的に通院に係る時間を削減することができるなど)
そのうえに自らの意志を綯い交ぜることで、結果的に多種多様で有意義な人生というアルバムが築かれていくのである。

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ピエロは何らかの役を演じていると人々は自覚しているはずなのに、いざその演技を目の前にすると、あたかも空気に溶け込み、人々は我を忘れて楽しくなってしまう。
だから、ピエロの内面を人々は決して図ることが出来ない。
もしかしたら私たちの様子を見て、またピエロも楽しんでいるのだろうか。
人は何かしらの意味でピエロである。
そう思うことが出来れば、きっと病んだ心も少しは軽くなるだろうと思う。

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あらゆる人間関係を煩わしいと思い、孤独に徹しようとする者は、全く食事を摂らず餓死してしまう者のように精神を自壊させてしまうであろう。
反対に、人脈を広げすぎるなどあらゆる人間関係を構築しようとする者は、ひたすら食事を摂ることで肥満や糖尿病などを患ってしまう者のように人と関わることで生じるあらゆるリスクを内包し続けてしまうだろう。
だからといって、孤独や人脈を広げることが必ずしも悪だとは言えない。
食を断つことによるオートファジー効果により身体を健康体に保つように、孤独は内省や思考の深化を促してくれることもあるだろうし、過食の中でもバランスの良い食事を心掛けることによって通常以上のエネルギーを発揮することができるように、広がった人脈の中でも程よい関係性を構築することが出来れば、凡人の数倍のチャンスをものにすることが出来るのである。

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同じく、他人が犯してしまった失敗について、それが故意では無く過失によるものである時は腹を立てずに許すようにしている。
ただ、明らかな不注意など未必の故意や重過失に属する失敗についてはケースバイケースである。

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過酷な現実にユーモアというフィルターを用いれば、精神に及ぼすストレスの幾許かは取り除かれるであろう。

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誰かの為に泣く涙は、自分をより強くさせる。
どちらの涙が良い涙かは一概には言えないが、一般的には、誰かの為に泣く涙の方が美しいと言われている。ただ、私が考えるに、涙は情緒を不安定にさせる効用があるため、むやみやたらと流すべきでは無く、誰かの為に泣く涙は本当に大切な相手の為だけに流し、自分の為に泣く涙は信頼出来る相手の前だけで流すべきだと考える。

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恋愛関係、友人関係、金銭から生ずる損得関係然り、全ての人間関係において言えることである。
しかし、そこで相手を憎んだところで何になるのだろうか。一時の感情に身を任せて行動すると、その反動でまた、安直な信頼関係という罠に嵌ってしまうのではないだろうか。
だから、私は相手を憎んだりはしたくない。もう、そのような相手とは関わりたくないから。ただ、私も人間だから当然復讐心はある。だから、相手に関わることなく復讐する方法を考え抜いたところ、自分が善い人間になることこそが相手への最大の復讐であるという考えに至った。

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どんなに完全無欠な人物であっても、アフリカのサバンナに放り込まれると、たちまち一動物に帰っしてしまう。
ただ、人は群れることで強いと錯覚することが出来る。
その他の地域のサバンナが文明社会に変貌を遂げたことがその証左であろう。

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思考は契機を活かすことができるが、思考のみでは契機を生み出すことは出来ない。
行動は契機を生み出すことは出来るが、行動のみでは契機を活かすことは出来ない。

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他人に興味を持つことで、他人は自分に好意を覚えるものである。
結局、他人も他人自身のことにしか興味を持っていないのだから。
ただ、その自分の中に他人から見て何らかの価値を見出せるのならば、他人はその価値に対して寄ってくることもある。

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プライドが高い者、自尊心が高い者、それぞれ自己愛が高いのである。
両者の違いは、前者が誇大な自分(自己評価及び他者評価から成る偶像)を愛しているのに対し、後者は等身大の自分(自己評価及び他者評価に影響を受けない実像)を愛していることである。
ただ、人間として生きる限りプライドと自尊心を全く無くすことは出来ない。
しかし、人間の想像とは果てしもないという点において、プライド(前者の自己愛)が高くなりすぎる傾向にあるのは確かである。

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恋愛中 男性=主人 女性=奴隷
結婚後 男性=奴隷 女性=主人

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何のために生きるのでしょう?
とよく耳にしますが、そんなの決まってません。
自分で意味を考え、付与するものです。
その意味がたとえ1つでも複数でも大きくても小さくても良いのです。

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他者に対してつく嘘は、人間関係を良好に保つことに役立つが、悪意が勝れば、それは危害にしかならない。
自分に対してつく嘘は、自身を鼓舞し自己肯定、自己効力感を高め得るが、それが過大となると、自己の慢心或いは精神疾患に陥る可能性を孕むこととなる。

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適度な自信
好奇心(集中力)
最低限の知識
があれば何かしら良い結果が生まれる。
それは、勉強、スポーツ然り日常生活の多岐に応用できるだろう。
万が一、失敗したとしても経験前よりも知識は身についているはずだし、過度な自信から生まれる慢心を未然に防ぐことが出来るし、より深く物事について知りたいという欲求も自然に湧いてくるはずである。
とにかく、これらのことを身につけているならば、自分に時間が残されている限り必ずいつかは良い結果、自分の思う通りの結果がついてくるはずである。

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約2ヶ月の短い付き合いだったけど
楽しい思い出しか無かった。
別れを切り出したのは自分
早期の結婚を望む彼女と
長く交際して相手のことを知っておきたい自分の
結婚観の違い。
彼女のためを想って自分から別れを切り出した。
でも、今思えば本当に彼女のことが好きだったんだろうか。
恋愛初心者である自分からして、本当に自分が好きと思える人と付き合おうと改めて感じた。
でないと相手に申し訳が立たない。

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周囲の反応こそが正に正解であると思い込んでしまうならば、果ては自分を見失ってしまうだろう。
もちろん、他者の反応に耳を傾けることも重要ではあるが、自分自身の反応にも耳を傾けることも同等に重要なことである。
自身を誇大に表示することは正に他者の反応に敏感である証左である。嘘偽りなき自身の素直な気持ちを表現することも時には必要であると感じる。

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喧嘩までとはいかないが
何かについて大きな言い争いをしておく必要があると考える。
なぜなら、その相手が逃げずに真剣に話し合える人間であるかどうか
また、言い争いをした後にお互いの妥協点がどのような場所に着地するのか
見極めたいからである。

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認められると嬉しさを感じる。自分の存在意義を感じることが出来る。
だから、自分を認めて欲しいなら、まず他人を見とめることから始めよう。
その第一歩は、その人の名前を親しみを込めて、事あるごとに呼び続けることである。
そうすると、相手も自分の存在意義を徐々に認めてくれるはずである。

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流流転々と主義、主張が変わることも、流されやすい者として他者からの信頼を失ってしまうことになるが、主義、主張に固執してしまう者も迷妄に囚われてしまっているということで他者からの信頼を失ってしまうことがある。
だか、総合的に考えて、どの主義、主張が正しいか判断することができないこともある。
相反する主義、主張の行き着く先に正しい答えが無かったとしても、少なくとも相反する主義、主張を持つ者を感化させるような根拠を持つことは必要であると思う。

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理由も併せて教えて頂けると嬉しいです☺️

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自分のコミュニティを守るために
主義主張をしている人が多くなっている気がする。
その行為が正しいものかは別にして、ひたすら自分の居場所を守るために。

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大規模農家による集約化は進んできてはいるが、山際の圃場など非効率的な圃場は受け入れたくない営農組合が多い為、どんどん荒廃している。
そこに群れ集う鹿や猪により、郷にまで獣害の被害が拡大している。
それに加えて近年の異常気象。
何とか耕作放棄地を有効活用する方途は無いのだろうか。

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しかし、選択肢を増やすための努力と選択した結果をやり切る努力をしないと水泡になってしまう。
昔に比べて、あらゆる情報と可能性が得やすくなったことで、この2つの努力を怠ってしまう人が増えたような気がする。自分も含めて。

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これも日頃の不摂生の影響なのだろうか。
それとも精神的なストレスゆえなのか。
とにかく、体の不調を感じたときには、これからは身体的にも精神的にも健康に過ごすことを心に誓うのだけど、一旦それから恢復すると、たちまち、その誓いを反故にしてしまう。
これこそ自分の弱さなのだと胸に刻みこむのだけど、自覚するだけで行動が伴わなければ、意味のない反省なのだと思う。。

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同情を寄せてくれる人がいれば有難いが
自分のことを想って笑いに転換してくれる人がいれば、なお有難いと思う。
同情は人への依存を前提とする一方、笑いへの転換はあくまで自己解決であるからである。

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理想を語るだけで、それに相応しい行動を起こさない者は、宝くじを買い続けて叶わない夢を見続ける者と一緒である。

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不幸を感じる時間が多くなる。
逆に、生きていることが当たり前でないと思うようになると
日々の一瞬一瞬に有難さを覚えるようになり
幸せを感じる時間が多くなる。
重要なのは大きな幸せを追い求めすぎないこと。
小さな幸せを素直に感じることのできる人間になれば、自然に大きな幸せがやってくるのではないだろうか。

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まるで吸水性が優れたスポンジの如く
善いもの悪いもの全て取り込もうとする。
では、大人になるとどうか
様々な経験を経て得た価値観をもとに、自身にとって都合のいいもの、つまり好きなものばかりを取り込もうとしてしまうのである。
そのような大人が子供を適切に教育できるはずはなく、そもそも、その資格すら無い。
善いものを積極的に取り込んだ大人は、自身の子供にもまた善いものを与えることができる。
善いものばかりを与えられた子供は、また次の子に善いものを与えることができる。
結局、まず大人が変わらなければ子供は変わらないことを自覚すべきである。

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無意識的な束の間の睡眠
どちらも違った幸福感を愉しめる。

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それもそのはず、趣味とは神様から与えられた人間の特権だからである。
動物は種の習性によってしか行動することが出来ないのに対し、
人間は、趣味を通じて人と出会い、自分が今まで知らなかった自分の価値を再確認することができる。
無宗教は外国人から見て奇矯に見えるらしいが、無趣味であることもまた、奇異なものとして見なす社会を作りだすべきだと考える。

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これまでに何度かデートをし、そのたびに相手の行動すべてに自分への好意が満ちているのであった。
私はこのような行為に全力で応えるために何とか相手を好きになろうと努めた。
しかし、どうしても好きになれない。
好きとは、相手を一心に想うことだと考えているが、どうしてもそれが出来ない。
このまま、ずるずると時が流れて、遂に相手に告白をさせてしまった。
私は今までの経緯を全て告白し、丁重に断った。
人を好きになったことがないから分からないが、四六時中相手を想うという感覚はどのようなものなのだろう。

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しかし、口撃が止むことは決して無い。
手がダメなら足で、足がダメなら体で人は傷つけ合う。
好きと憎しみが表裏一体なのと同様に、協働と争いも表裏一体なのかもしれない。

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活字偏重主義はもう懲り懲りである。
漫画でも、読む本を厳選すれば必要な知識は得られるし、文字だけでは伝えきれない描写などの視覚的情報を細かく表現できるうえで漫画は卓越している。
まぁ、活字をひたすらなぞるだけで賢くなったと悦に浸る者にとっては余計なお世話かもしれないが。
