
萌柳
気分屋です。返すときは返しますがしばらく返さず突然返すこともあります。TRPGプレイヤーなので関連の話、初心者の方の質問等は歓迎しております。プレイは完全テキストのみ/KP,PL両方可です。匿名質問は最後に「.」があれば分かりやすいかなと思います。
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指針は評価基準であって最終決定である選択は指針の従属物ではない。思想は道具でその責任はどちらかというと選択したという事象自身にあるし、さらに言えば責任が事象に帰属するにしてもその責任を生じさせる原因に周辺環境が制約を与えたのは当然のことである。ゆえに考えが悪いという話しでもないし誰かが悪いということでもない。何かを目的とするならば各事象が総合して結論に近づいておく必要があるというだけではないのだろうか。
そういえば意志決定の場と選択をそれぞれ別の個としてみてそれぞれの独立性から西洋的アプローチと東洋的アプローチで"正しい"とされる選択の構造を論じているのがあった。少し忘れてきているためもう一度読んでからでなければ正確なことは書けないが少し近いような話である気がする

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回答数 5>>
まぁ彼の功績に関しては周囲の人材が優秀だったため手に入れることができたものもありますけど、彼自身の戦才も驚くべきものですね。政治家としての評価は革命以後のフランスで何故か皇帝になった人物というだけである程度十分なのではないでしょうか

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正直に言うならば不倫が発見される可能性が存在するならばそれは存在すると考えてもいいと思うのでバレるかどうかというのはより厳密に言ってバレるという状態が存在できるかだと思いますよ。つまり普通に考えるとしていいと言う反応になることはまず無いかと思われます。
まぁ理論的な話はおいておくとして姦通罪は何故か現在は無いそうですね。まぁ相手に少しでも不利益を与えるなら単にそのような人物は不適格者と社会で扱われるだけというわけではないでしょうか?

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しかしながら、現実このような選択を全員が行っている訳ではないであろうしそもそも前提にあげた必ず負けることがあるということ自体が前提として適切なのかには疑問がある。つまりごく僅かにしても必ず負けないと言う状態にある人物が存在する可能性というのは当然ながら存在するのでありこの存在の仮定無しに和平を最適戦略と考えることはできない。また、必ず負けないというのは全員に勝利するようなたった一人のみが成し得る立場ではない。必ず負けないというのは単に最大ではなくてその周囲において最も高いという極大であるからだ。戦闘戦略の具体をここでは想定していないため詳細には話せないが最大を望むのではなく極大を望むだけならばさらにこれを成し得る確率というのは高くなる。特に人間の観念というのは統一されたものではなくそれぞれが有するために他者から与えられる損益が少ないと計上すれば戦闘戦略を採択することも当然のことになる。
以上のことより私個人としては和平が最適戦略であると信じる立場にはいるものの当然のことながらその他の最適戦略を採択する立場というのは存在するのだろうと考え、そもそも和平が最適戦略であると統合的に言うことはできるのだろうかという疑問を持つわけである。
適当ではないことを言うのならば教育という観念の植え付けが最適戦略の統一を最も優勢に進められる道具なのだろう。

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よって私個人が解するとこの言葉の活用の意義というのは、あるときその事象について考えない姿勢が問題であると言うことを暗に示す機能を果たすことであって、具体的な内容が結果を招くために重要である強調する機能は持っていないのではないかと考える。そして、同時に完全認識によって最適解が導き出せることは非常に少なく、むしろこの言葉に従って考えているからそれで良いと自己を安堵させるような状態にあるのならばこれは意義からして適当な状態ではないのではないだろうかと私は考えるわけである。つまり、これらは完全に認識できるならば問題はないという終端における可能性を示しているに過ぎないのであって、これはしては行けないことを暗に示す教訓であり特に成功のための具体的な手法論を示しているわけではないのではないかということを提起したい。
ゆえに実際の話としては、自らの過ちを想定した上で判断を行うこと、あるいはその意味で公益のために他者の過ちを適度に指摘することが必要であるかあるいは適当なのではなかろうか。
と、ここまで書いたところでふとあるいはこれすらも己を知るということなのかもしれないと思った。しかしこの意味を短く示すとしてはいささか情報の欠損が激しいように思われるが実際はどうなのであろうか

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つまり私の思考の所以というのが自身が過去に潜在的な要素としてその哲学の思想を聞いたことがあったために似ている考えを持ったのか、はたまた完全な偶然として同じ思考に行き着いているのかのどちらであるのかということだ。
まぁ正直に言えばこれらは分離させるのは困難であると思われるし、さらに言えばこれらにほとんど違いはないため別に気にするようなことでもないような気はするのだが、不思議なことに良く考えてしまう。もしかしたら類似するものの過程を分離しようとするのは人間の独立精神に由来する性であるのかもしれない。

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何か妙案があれば聞いてみたい

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ここで二つの考え方があり、自分の認識のみに会った自身Aは属する、つまり認識個体とは別の性質を持つのだと考えるならばそれはただの自身を写し出した姿であって抽象的な架空品でしかない。しかし自身と同質の性質を持っているのならばその自身が認識できる自身もまたなんらかの自身を認識できるのかもしれない。
当然、自身を認識できる自身と自身を認識できない自身の二つがあるのかもしれないが、一般的に考えれば確実とは言いがたいので連続的な形として自身が認識する自身もまたなんらかの自身を認識していると考えるのが自然だろう。前者についても考えてみたいところではあるが。そして当然これはいわば一面を切り取っただけの形であるのだろうが考えようによっては合わせ鏡を見ているようで面白い気がする。

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つまり、生きていく上で身に付けたい素養やまたはその他の特徴と言うことでしょうか?
私自身、私の物理的な判断処理それ自体が自身の物理的な外面と分断されているわけではないので、内面的に私がこうしたいと思うような選択が最終的に自身の未来に大きく影響を与えられるとは考えにくいのですが、その事を考慮せずに展望として三つあげるとするならば、脳の処理を早くすること、感情面の働きによる外部への影響をそらすこと、無意識の処理を減らすこと、でしょうか?

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まぁ私はこれを守らなくて地獄を見てきた。

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暦が発達したりするのは分かりますが、年齢が直接使用されて発展したのか不思議で、原初の時代では中々使うところもないと思うのですが、もしかしたら暦の発展と占いなどの辺りで例えば徐々にいついつの生まれのような言われ方をするようになったのかもしれませんが不思議ですよね。

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今までで言うと例えばメディアによるコマーシャルやひょっとしたら娯楽やサービスへの出資による広告施設の設置があったわけですが、企業や商品を購入の選択肢に誘導することが目的になるわけですよね。電脳や生物のインターネットへの通信が可能になったら洗脳が広告になるんですかね?まぁ現代の広告戦略も洗脳の前段階かそれ自体であるような気もしますが

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起きた瞬間にも夢の中の音や感覚が鮮明に持続していたり当たり前に現実の感覚が夢に入ってきたり、こういうのを感じるとアァ夢を見たと思うはずなのであるが今日はふと夢から覚めた瞬間、あぁ現実も夢の一種かと思ってしまった。
何を言ってるのかと思うかもしれないが、つまり人間が脳で情報を処理した結果を我々は見ているだけであり、我々が認識する世界というのは夢も現実もどちらも同じように脳を通して見ているだけなのだとふと感じたということである。
これは、いわゆる逆転の発想で少し面白いかもしれないと思ったので折角だから残しておく

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私の話し方や性格からすると文字が綺麗というのとはかなりかけ離れているような気がします。
ところで、名前に関しては何度も書くので自然に上手にかけるというのはありそうですよね。名前が長い人の方が実は文字が綺麗だったりするんでしょうか?

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というのは正確に言うならば実際に整理といわゆる最適化のための比較や条件の確認はしたりするものであるが、それは例えば実際に存在するか等を確認するためのものであって、別に訳の分からないことを書いてあっても実害がないならば排除する必要はないのではないかと想定しているからだ。
また、積極的に言うならばそもそも断定的に選別や排除を行う処理圧があること自体が状態を歪めてしまうように思われる。もちろん条件次第であるのは重々承知の上ではあるが、実用の話で表現されたものを検証するだけで表現の検査を行わない状態というのは中々面白い最適追求方法の一つではないかと思う。
まぁ、このような発想に行き着くのは前提として社会に評価のラベリングを任せるのではなく個人で都度評価してしまえばいいと思うからなのだろう。

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そして人間は問題のグループ化によって認識を容易にしようとする癖があるので、もしも解明ができてしまえば、どこから先の情報であれば加工しなければ扱えないのかすらも分かり非常に生物として生きやすい設計ができるのではないかと思うのであった。

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私のはウサギなのに……

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ただそこで不思議に思うのが、ある一定の意味を持つ良い表現が出てこないために悩むのならばそのような定義でもって表現を生成してしまえば良いのではないだろうかと言うことだ。
とはいえ任意の生成を行ったとしても、結局のところこれは共通認識があるかによって、適当であるかの判定が行われるわけなのだが、そもそも共通認識のもとに表現の生成が行われるのならばその体型と言うのの行く末は完全に定まっているのではないのだろうか

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というのも有無に関して有の有連続は有ですけど有の無は無でかつ無の無が有なら無は否定に近いなとまぁ考えること自体は1,0の累乗のようなことを考えようとしてるだけなんですけど。
とはいえ無と否定はどうも別のもののような気がするなぁと特に確証を持てないのできいてみた次第であります

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そしてこの強い好奇心への制約と言うのが私の活動を抑制している強い要因なのだろうと思う。とはいえやはりそれほどまでの強い意思のもと認識できない何かに意欲を向けたいとまでは思えないのであるが。
その代わりに私が日頃から強く考えることが直接的に認識する方法はないのだろうかという問いである。と、このような遷移を辿ると、私の思考の中心に認識自体に対する手法論を考えることがある理由というのは、自身の探求の最大化を叶えるためには直接的に認識する必要があるからではないかとふと思った。
