
HIRO
アラフォーです
心理系(HSP)発達障害(アスペルガー、カサンドラ)
時事問題、趣味
いろいろ発信していこうと思う
アニメ
話を聞くのが好き
料理
猫
医療・福祉

HIRO
#心理的リアクタンス
以前ジャム交換を説明したが
もう一つ
心理的リアクタンス
少し話はズレるかもしれないが
最近流行りのボンボンドロップシール
手に入らない期間が続いている
8月、お店にはボンボンドロップシールはお店には普通に並んでいて
普通に購入可能だった
では心理的リアクタンスとは何か?
端的に言うと
制限されたものはそれに反発したくなると言うこと
例えばswitch2
特別必要としていない状況で
世の中では手に入らない状況だとしましょう
たまたま寄ったお店でラスト一個のswitch2を見つけたとします
あなたは購入してしまう
しかし、世の中ではswitch2はたくさんあり
お店にも10個も20個も並んでるとしましょう
あなたはきっとそれを購入しないでしょう
結論
規制された状況ではそれに反発してしまうと言うことです
必要としていないものでも、残り一つしかないと考えた時に手を出してしまうような状況です
ボンボンドロップシールもおそらく
同じ種類を2個も3個も必要としないにも関わらず
見つけたら買ってしまうと言う状況なのです
心理的リアクタンスを理解して
余分な出費が抑えられるようになるといいですね

HIRO
知り合いの心理師さんから面白い話を聞いた
SNSなどを見ていても納得するような内容
心理的経済活動の話
ジャム効果
6種類のジャムを並べたお店と
24種類のジャムを並べたお店
どちらも試食がある
試食が多かったのは24種類のお店だが
実際売れた割合が多かったのは6種類のお店であった(10倍)
何が言いたいかというと
選択肢が絞られた方が購買意欲が上がるという話
メニューのたくさんあるラーメン屋さんより
看板メニューがあるお店の方が魅力的に感じませんか?
という話
(ファミリーにはメニューがたくさんあった方が嬉しいですけどね!)

HIRO
漆黒の庭がある
一見何も無い庭
よく目を凝らせば、花が咲いている
綺麗に輝く花
力強く存在を主張する花
今にも枯れそうな花
傷付きながらも咲いている花
これから咲こうとする花
一つ一つでは気付かないが
似たような花同士で集まり
それぞれの命を紡ぐことで
庭を彩っている
その庭の名は…
『GRAVITY』

HIRO
穴が空いていると思っている人多いですけど
ドーナツって穴空いてないんですよ
あれは穴ではなく
生地を輪っかにして、火の通りをよくしているだけであって
あれは穴ではなく輪っかなのです
と適当に言ってみる

HIRO
ASDの理解は簡単
相手目線があるかないかで全て説明がつく
察する文化とは
相手の目線で見ることであって
ASD自身も察する文化の恩恵を受けている
ただ、察することが難しい
なので他者との軋轢が生まれる
これはASD対ASDでも起こること
それはASDも察して欲しいと思っているからである
相手目線で見るのが難しい
そして治ることはないということ
(認知することは可能

HIRO


HIRO
よかった
でも、忙しかった…



HIRO
ASDの情緒的交流のできなさと
自閉という話
ASDの方で多いのが
謝罪ができない
挨拶ができない
イベントが無意味なこと
などがある
これを一個一個紐解いていく
まず自閉と呼ばれるものとして
感情のベクトルが自分に向いているということ
最初に
本来謝るという行為は
相手を不快にさせたことに対して、相手に向けて謝る、相手の感情を収めるためにする行為であるが
ASDでよく聞くのは『許してもらう行為』なのである
自分のための行為であり
許してもらう必要がない=自分に非がないと思う場合は謝らないという選択になるとのこと
挨拶はどうだろうか?
挨拶とはまず、自分がそこに到達した、存在する、というお知らせだったり、自分が相手にとって敵意がないことを示す行為であったり
相手に自分の感情を心情を伝える行為でもある
相手に自分が何者かを伝えて、相手の不安を取り除く行為であるが
ASDは挨拶は自分には意味がないので
挨拶は不要と考えているのだ
イベント
例えば誕生日、母の日
これに関しで以前も述べたが
誕生日の人を祝う、母に感謝を述べる日であり
相手メインの日になる
もちろんASD本人にはなんの意味もなさない日である(実際意味がわからないと言っている人がいた)
この感覚は定型の人にはわからないとは思うが
簡単に言えば
世界は自分であり
自分が中心であるからこそ自閉と呼ばれる
その自分の世界に、意にそぐわない定型が入り込んでいる感覚なのだろう

HIRO
自分はASDが嫌いじゃない
自分に対しての行いが不快だった人がASDであり
ASD特性でそうなっていたって話であって
ASDの人が全てそう言う感情ではないし
女性においてはASDでもそんなに特性を感じることはない
ASDだから嫌われてるんじゃなくて
ASDの特性に苦しめられた人が、その特定の相手を嫌っているだけで
ASDの人が無条件で嫌いっていう訳ではない
自認しているASDの人に対しては
その特別な嫌悪感とかは感じない

HIRO



HIRO
権利と義務は表裏一体ではない
もちろん、状況的にそうなるパターンもあるが
たとえば
横断歩道において、車は歩行者を優先する義務がある
歩行者は横断歩道を優先して渡る権利はないのだ
(法律で記載がない
要は歩行者は車を停止させる権利はない
あくまでも、車側の義務である

HIRO
たけのこの里
派閥論争があるけど
そこにきのこの山があったら
きのこの山たべるじゃろ?
たけのこの里があったら食べるじゃろ?
両方食べんねん!!
ただ言ってみたかっただけです

HIRO
奢る派?
いいえ
自分で食べたものは自分で払う派です
どっちも考え方がケチ
自分で食べたものは自分で出せばいい
って他人に対しては思ってる
自分は奢る派です

HIRO
ASDは少数派であり
多数はの定型社会に適応できないのが原因
というASDの人がいる
以前もこの話題には触れたが
ではASDの人のみの社会があったら
何が起きるか
まず前提として巷で言うカサンドラ症候群だが
ASD同士でも起こりうる現象である
確かにASDが適応障害を起こすのは、一般社会に馴染めないのが原因だろう
ではカサンドラは?
家庭などでの『立場の弱い人』が適応障害を起こすことである
カサンドラの人=定型発達というのは間違いである
カサンドラ症候群とは情緒的交流のできない人同士で、パワーバランスの弱い方が不適応を起こす現象である
定型発達対ASDの構図ではない
では、ASDのみ社会があったとしたら?
ASDに配慮された社会にはならない
まずそれが不効率だから
その結果社会的に規範が策定されて
結果みんな不適応を起こしていくと言う現象になる
そして、弱い立場の人はカサンドラ症候群になり
会社では不適応を起こしていく人が溢れる
(もちろん、そんな社会でも生き抜いていけるASDの人も存在はする)

HIRO
以前作ったタコライスモドキ
スナックに野菜などを乗せるやつのアレンジを作ってみた
下はタコススナック


HIRO
ちょっと面白い事例
とあるASDの人のつぶやき
『騙ないとの思っている人の方が、騙されやすい。騙されないと思って自分は、騙せれやすいってこと?』
おそらく意味を全然わかっていない
この人は言葉の背景、なぜ騙されないと思ってる人が騙されやすいか
この二つの文しか理解していない。
正確には
騙されないと思ってる人は騙されるとことを想定していないために、騙されてるという感覚がないため、騙されやすい。
騙されやすいと思っている人は
騙されてるかも?という意識があるから人を疑うため、騙されにくい
という意味である
『騙されにくい人』と『騙されないと思ってる人』は全く別の話なのである
この言葉の裏に隠された
意味合いやロジックを理解することが難しいのだ

HIRO
ASDの情緒的交流について
例えばお葬式
あまり近しい関係ではないお葬式において
親族は悲しみなどを、感じているが
ASD本人は特別そういう感情はない
もちろん定型のひともそういう感情はないだろう
では何が違うのか
定型はその場の雰囲気や親族の悲しみなどを感じ取って
自分もそれに共感するのだ
これが情緒的交流である(その場や、人に心を動かされる)
ASDは自分目線しか無いかので
親族が悲しいは理解しているが
共感ができずに、心が動かされることはないのだ
送別会や懇親会、誕生日会など
主人公がいて、その人のことを考えて行われる会というのが理解しにくい
主人公にとっては意味のある会なのだが
それを理解できずに、ASD本人にとっては意味のない会なのだ
『誕生日とか意味はない
だから妻の誕生日とか祝う意味がわからない』
となってしまう
大事なのは妻が誕生日を楽しみにしているかなのだ

HIRO
睡眠時間が増えている
今日は12時間寝た
そしてやらなきゃいけない仕事を頑張っている
社員からのストレスも受けている
なんで自分の不安を他人のせいにして
他者にストレスをぶつけるのか?
解決しないことを騒ぐのか?
それは自分の問題ではないのか?

HIRO
具体的なストーリー
その1
とあるASDの社員
会社の業務でお願いされた仕事があったのだが
いざ提出を求めると提出拒否
しかも恥ずかしいからという、意味のわからない理由で
それに係った経費とかは一歳支払わないことに
なぜ提出しないのか謎…
その2
ASDはその特性を自認して
周りに嫌な思いをさせないように過ごすべきだというASDの人がいた
その人の行動を見ていると
他人のルームに入っては自分の理論とか話をしてルームを壊す
特性を自認できずに周りを嫌な気分にさせていることにも気づかない
他の障害と圧倒的に違うところは
言われても気づかないし、治らないな

HIRO
ASDの解像度に
新たなる仮説
ASDはルーティーンを好む
予定の変更、想定外に弱い
これは前述の通り自他境界の曖昧さの関係で、社会的に交流が苦手というところを前提として
定型は人と人との関係性で学んでいくが
ASDはルーティーンで学んでいくということ
例えば
飲み会の席では上司にビールを注ぐ、という行動があるが
普通は普段の感謝の気持ちを伝えるとか、そういう理由でやるのだが
飲み会ではビールを注ぐ
というルーティーンになる
一見問題ないように見えるのだが
友達との飲み会でも、なぜが友達のコップにビールを注ぐのだ…
例えば妻の誕生日、誕生日だから、ケーキとプレゼントを用意するはいいだろう
例えば、その日妻高熱で寝込んでいても
おそらくルーティーンで、ケーキとプレゼントを渡してしまうのだろう
実際そういうことが起こるかは別として、実際に似たようなことが起こるのだ
仕事においても、何かきっかけにお客さんに怒られた時に
解決方法を学ぶのだが
それはそのお客様のみの話であって
その解決方法を、他のお客さんにして、怒られるということが起きうるのだ
要はその行動をするきっかけとして
社会的に交流をすることをパターン化してしまう
パターンに当てはまらなときなど、臨機応変が苦手なのだ

HIRO
自他境界の話
改めて
自他境界とはいろんな目線から語れるが
今回は視線についての考察
定型発達の人はこれは当たり前なので
あんまりピンとこないかもしれない
自他境界とは
視線で考える
自分→他者
自分→自分
他者→自分
他者→他者
この視線がある
自分→他者
他者はりんご好きなのかわからない
自分→自分
自分はりんごが好き
他者→自分
他者から見たら自分はりんごが好きかはわからない
他者→他者
他者から見たら他の人もりんごが好きかはわからない
となる
この自他境界が曖昧になると
自分という視線しか存在しなくなってしまう
自分→自他
みんなりんごが好き

HIRO
ASDは素直で嘘がつけない
これは正しくもあり
間違いでもある
ASD目線から見た時
何か不都合が起きた時
言い訳をする
待ち合わせの予定があったのに、すっぽかしたとする
ASDはテレビを見ていて、忘れていたとする
急な用事があって行けなかった
という言い訳をする
これは厳密には嘘なのだが
ASDの中では『テレビを見るという用事』が出来たため、行けなかった
ということになる
本人の中では嘘ではないのだ
何か不都合が生じた時に、言い訳を探すため
本人の中では嘘ではないのだ
アップルパイの中がリンゴだとしても
都合が悪いと
バナナだと思った
と言い訳する
バナナという認識だから、嘘を付いてはいない
という理論になる
周りからはすぐバレる嘘なんですけどね…

HIRO
ASDの認知のズレ
問題点
改めて整理
やはり基本としては
自分目線しかないというところ
自他境界の他が存在しないのだ
世の中を自分中心に考える
たとえば
自分はりんごが好き
だから、周りの人もりんごが好き(空気読めない
目の前の人が困っている
自分は困っていないからやらない(受動型
自分が嫌だから◯◯はしないで欲しい
でも、自分が相手に◯◯するのは自分は嫌じゃないからする(ダブスタ
全部
自分→の目線なのだ
普通の人は
他者→自分
自分→他者
という視点で見ることができる
自分目線しかないから
自分の障害は多数派の社会が作ったために障害が起きているという認識になってしまうのだ

HIRO
ASDは嘘をつけない
正直だ
という評価がある
ただ、この嘘はつかない、正直
っていうのは少し認知が違う
本人は自分に嘘をつくのだ
ミスをした時に
知らなかったから仕方がない
自分がやってない
という
これが事実なら嘘ではないが
知っていたし、自分がやったことも知っているのだ
もちろん定型発達それをわかってて、言ってることを信じるのだが
嘘をついていることはバレている
結果ASD本人は嘘がバレていることに気づいていないし
たとえば嘘が、バレて詰められても
論点をずらしたり
話を無かったことにしようとする
要は相手に対して嘘をつけないのだが
自分の中で嘘を真実として処理するから(事実改変)
自分の中では、相手に対して嘘をついていることにならないのだ

HIRO
障害の環境モデル
と言う考え方がある
これは社会の制度不備によって障害者が障害となっていると言う考え方らしい
確かに、社会制度によっていろんな障害者の方が障害なく生活できる社会にはなるだろう
今の社会は目の見えない、耳の聞こえない、歩けない人向けの制度設定になっていないという考え方である
ASDの人でこの環境モデルの定義を信じきってる人がいるが
これこそ他責な考え方で
例えASDが社会規範を作ったところで
ASDの生きづらさは変わらないのだ
なぜか?ASDから見たASDもまたASDの特性で苦しめられるからである
集団的社会的、要は人と人が関わる社会において、ASD特性が障害になるのだ

HIRO
『私はASDだけどASDという名前ではない!
ASDは嫌われるというけど、ASDみんなが嫌われるわけではない!
ASDなんていう障害ではない!』
ASDの人の認識でこういう人がいる
もちろん、そうじゃなくて
『ASDは嫌われることを自覚しなければいけない
特性を理解して、気をつけなければいけない』
という人もいる
前者は自他境界にがごちゃごちゃになってる人
ASD=私=他のASDになってしまっている
大事なのは自分がどうなのか
嫌われるような行動をしているのかどうか
ASDはASDだから嫌われるわけじゃない
ASDはASDの特性を発揮するから嫌われるだけであり
その特性をコントロールできれば、嫌われないのだ
世の中からASDという概念がなくなったらどうなるのか
ASDというカテゴリーにいれられるのが嫌な
前者の人はASDというカテゴライズに苦しめられることは無くなるだろうが
社会からの配慮はなくなってしまうから
生きづらくなってしまうだろう

HIRO
車椅子の人
社会『スロープ付けて、段差を無くそう!!』
耳が不自由な人
社会『目視でもわかりやすく、危なくないようにしましょう!!』
目が不自由な人
社会『目が見えなくても、白杖や音でわかるようにしましょう!!』
ASD
社会『指示が理解しづらいので、わかりやすくしましょう』
ASD『は?そんな特性ないし。差別だ!お前らの社会がおかしいんだろ』
社会『こいつらダメだ』
今ここ

HIRO
人は情緒的交流を
社会的交流をしなければいけない
とあるASDの人が
自分が話が理解できないの相手の説明不足であり
理解できないのを相手のせいにしている他責だ!
っといっていた
相手の説明不足だといってる方が他責ではないのだろうか…
要はその説明を聞いて、大半の人が理解できるのであれば
それは自分の理解力の低さが原因である
この人は大概人とのコミュニケーションがうまく行かずに、理解力も皆無
自分を過大評価してよく見せたい人なのだ
言ってることば至極真っ当なんだけど
自分の評価が間違っているので
前提条件を満たしていないんだよね

HIRO
#ASD
脱カサンドラ
元カサンドラという人がいる
ASD配偶者による適応障害を抜けた人のこと
ここに至るには多大な努力が必要
ただ、この人たちの困りごとは消えてはいない
ただ自分が配偶者に寄り添ったにすぎない
相手が自分に寄り添ってくれているわけではない
ただ、関係性はカサンドラを発症しているときよりはいいだろう
ただ、この脱カサンドラを抜けるのに
ASDが邪魔をする
脱カサンドラをするためにはASDの特性を理解して受け入れていかなければならない
SNSなどで情報を共有して、対応策などを考えていく
受け入れていくことで脱カサンドラに辿り着くのだが
ここで自認できないASDの人が
差別だ!ASDにそんな特性はない!と邪魔をしてくる
ADHDに対してはそんなに嫌悪感を示す人は少ないだろう
障害を自認しているからだ
ASDはなぜそこまで自分の特性を否定するのだろうか…
それは見えてる世界が違うからだろう

HIRO
ASDの不思議なところ
『なぜ自分が悪くない
間違っていないと思うのか?』
全ての人ではないと思うが
特に大人になってから診断された40代50代
定型としていままで育ってきた人たちに多いのかもしれない
では定型発達からしたらどんな状況なんだろう
例えば定型でも、ドアが閉められない
電気を消せないなど色々いると思う
でも、定型発達はドアを開けっぱなしにする、電気をつけっぱなしにすると言う行為に対して
ダメなことだと認知はしている
ASDは
気づいた人が締めればいい、電気を消せばいい
自分ばドアや電気で困ってはいない
と言うスタンス
これは他責であるが、本人はそうは思ってない
ドアが開いているこのに困ってる人が締めればいい
自分で解決すればいいと思っている
自他境界の話でもあるが
社会性に著しく欠如してると言える
社会性と言うのは他者と円滑な関係を作り
集団の中でうまくやっていく能力のこ

HIRO
今日はASDの方が
『挨拶も、感謝も、謝罪も
やりたい人だけやればいい』
と言うポストを見ました
確かにそれは自由ですが
挨拶も、感謝も、謝罪もしないのであれば
その人とは人間関係すら持ちたくないと思うのが大半の人です
それで不利益を被っても文句は言えない
と言うところまで理解して言ってるのだろうか?
自分の都合を押し付けると言うことは
相手の都合も押し付けられると言うことを容認しなければならない
ただ、これを差別行為だと言う人がいる
変な話だ

HIRO
ASDは他人の気持ちがわからない
と言われている
でも実際みんな人の気持ちなんてわからない
想像できるか
共感できるか
それは自分以外の人は自分とは違う気持ちがある
と言うことを理解すること
(要は自他境界のはなし)
相手の立場に立つとは
例えばピーマンが嫌いな人がいる
自分がピーマンを前にした時に
『自分はピーマンを目の前にしても、ピーマンは好きだ』
これは他者の気持ちではなく自分の気持ちである
そして他者の気持ちに立っているわけではない
では他者の立場に立つとはどう言うことなのか
『自分はピーマンを前にしても、ピーマンは好きだが、自分はセロリが苦手で、自分がセロリが苦手なように、相手はピーマンが苦手なんだろう』
と言うことではないだろうか
要はピーマンが好きか嫌いかではなく
その人はピーマンが嫌いであって
その嫌いと言う気持ちを共感できるかである
私はこれが嫌
僕は好きだけどね
ではないのである

HIRO
自分はASDについて
いろいろ調べて
触れてみて語ってきたけど
一つだけ言い忘れたことがある
それはASDと一言で言っても、全てのASDが同じではないってこと
ここまでたくさん語って来たが
当てはまらない人もいると言うこと
仲良くなり、コミュニケーションをとっているASDの人もたくさんいる
自分を受け入れて、改善しようとしている人もいる
自分が語っているのは
あくまでも、自分中心、自己中心的だったり
尊大型(NPD併発)だったり
社会から、周りから嫌われるている人の話であって
ASDが、全てそうではないってこと
(ASD同士でも軋轢はある)
事実を事実として受け入れて
認めて、対話をしてくれる人は大勢いるってこと

HIRO
#ASD
カサンドラ症候群に対して
カサンドラという名前の由来を理由に
カサンドラ症候群を否定してくる人がいる
カサンドラという未来を予知できる女神が
周りから言うことを信じてもらえない呪いをかけられたことに由来する
定型の配偶者の言うことを
ASD配偶者が信じない、認めない
と言う状態に照らし合わせて名付けられている
これを誇大解釈して
『カサンドラの人は、自分が預言者であり、呪われた被害者と言う立場をとっている』
と言う人がいる
まさに論点ずらしでしかなく
逆にカサンドラ症候群と言う概念を提唱した人や
ASDに関して研究している人たちは
事実を事実として認知できないという特性を認めてると言うことになる

HIRO
個人的なASDの人の問題点
ASDの人はASDの障害を障害として認められていないところが多いと感じた
ADHDを名乗ってる人でも、よくよく話を聞いているとASDの特性も診断されていたりするが、隠したりしている
子供の診断降りてる人も、親もASDの診断を受けているが隠している
まずなぜ本人がASDの診断を受けたのかというところ
それは社会的に困りごとがあり、会社や家庭で生きづらさや、困りごとがあったからではないのか?
それを認めずに、ASDの困りごとは定型発達社会のせいだとしてくる人が多い
そもそもこの世の中は定型発達に合わせて作られたものではないし
そもそもASD1%程度と言われている
定型発達だとしてもそれこそ多種多様であり
ASDほど傾向化されたデータは存在しない
ASDはスペクトラムで多種多様とか主張する人が多いいが、定型発達こそ多種多様であり
ASDは自分たちの障害から逃げるためにスペクトラムという言葉を都合よく使っているように感じる
結論として
ASD診断者はASDの特性からくるのか
ASDという障害に対して自認したくないという無意識があり
ASDの差別意識はASD診断者本人が一番強いと感じた
この傾向はASDというものがはっきりしてきた昨今において、中年の大人に診断された人に多い傾向にある
子供や、若い子はこの価値観に捉われず自信を持って生きてる人も多い
これからの子供達はASDの人も障害を自認することによって、困りごとを認め、解決して自信を持って世の中に出ていく時代になるといいなと思う

HIRO
#トーンポリシング
みなさんはトーンポリシングという言葉を知っていますか?
簡単に言えば論点ずらしです
厳密には
『あなたは〇〇を失敗しましたけどどういうことですか?』
という質問に対して
『その言い方はきついんじゃないんですか?もっといい言い方があるんじゃないですか?』
と返す
これは相手の言葉や、言い方に、ケチをつけて
本題を逸らそうとする行為です
これを、トーンポリシングといいます。
ASDの人と話をしてて感じることはトーンポリシングに限らず、論点をずらしてくるというところに問題が多々あります
話をしていると、どんどん自分のストレス謎のストレスか溜まっていくということです
『◯◯さんが、あなたが失敗したと言ってますがどうですか?』
これに対して
『いつそんなことを言っていたんですか?』
と返してみたり
『誰が失敗していたんですか?』
と言ってみたり
会話の内容に関係なかったり、あえて会話でわかるような内容を聞き返したりしてきます
定型発達の人はわりかしこれに対して
切実に回答しますが
基本的には真面目に答えず
『自分の質問に答えてください』で返すのがおすすめです
これに対して『なぜ自分の質問に答えてくれないんですか?』とさらに論点をずらしてくる人もいますので厄介です

HIRO
ASDも一つの塊ではない
が一つの結論
おそらく世の中で問題とされているASDの人は
自覚してなかったり
未診断だったり
自分を受け入れられてなかったり
尊大型ASDだったり(NPD併発)
なのだろう
自分の解析度が高く、自他境界のあるASDは
対策をしてうまく社会を渡っている
そして定型の人が発達もそこ対策して社会をうまく渡っていることも知っている
定型発達が努力もせずに社会に溶け込んでると思っているASDの人は多いかも知れないが
そうではない
努力して溶け込んでいる
一つASDでもやばいパターンの人は
結論しか言わない人
過程や、ロジックが抜けてる人は
自分の希望的観測でしか物事を喋らないので
会話にならず
トーンポリシングに走る傾向にある

HIRO
ASDの行動のズレ
なぜASDが謎の行動をするのか
もちろん相手の立場を認識するのが苦手というところからきている
言葉通りにしか出来ないのもその原因だろう…
例えば上司ASD
『私は具合悪くて、仕事ができません』
これに対して
『ではどの仕事ならできるのですか?』
と聞いてしまうくらいにズレている
自己保身
相手の状況より自己保身が優先されるのである
周りから見て、自分がちゃんとコントロールしている
=具合悪くてもちゃんと仕事をしてもらわないと困る
これが結論になっている
本来であれば、具合悪い相手を気遣い
『みんなで穴埋めしましょう』
なのだが
ここまで考えが及ばない
具合悪くても、仕事してください
じゃ無いと仕事が回らない
周りも困る
周りが困ると自分が責められる
全部自分中心の考え方になってしまう
その人が具合悪いとかは関係ないのだ

HIRO
ここ数ヶ月
発達障害の人とコミュニケーションをとりながら
触れ合ってきた
特性を自認してる人もいるし
コントロールしてる人もいる
特性を自認できなくて
自分がASDであることを否定してる人もいる
厄介なのは後者
特性を指摘すると否定
差別だと脊髄反射で否定する
おそらく反応してる特性は特性なんだろう
そして人の話がまず聞けない
何かを指摘されたときに、本題を無視して論点をずらして
最後は指摘してきた人を詰め出す
前提条件をずらして、話題をずらしていく
(定型のひとは共感性が強いので、このずらしに引っ張られがち)
そして自分をよく見せよと背伸びをする
知ったかをする
都合の悪い話は、都合のいい解釈にする
他者の意見が全く理解できずに、会話が通じない
おそらく言語IQがめちゃくちゃ低かったのだろう
自分は仕事ができるとか言っていたが
おそらくあの感じだと仕事はできていないだろう…
境界知能の可能性もありそう
そして自己肯定感が低い
精神年齢はおそらくハイティーン(実年齢は50代か…)
自他境界が全くない
喋る言葉は定型分になっている
おそらく今後も変わることはないだろう

HIRO
『カサンドラ症候群という病気はない』
カサンドラ症候群を認めたくない人たちが一定数います
それは認めたくない
自分は悪いことはしていないという感情からくるもの
もちろん、悪意はない
けど、原因はそこにはある
カサンドラ症候群は必要な概念です
ASDパートナーとの関係で適応障害になった人のことを指す言葉です
得体の知れないパートナーとの関係に、きちんと概念があり、その苦しみを表してくれる言葉なのです
(もちろんアスペルガーだけではなく、別な理由で適応障害になる人もいます)
確かにカサンドラ症候群という疾患はありません
それを言ったら風邪という疾患も存在はしないのです
なので『カサンドラ症候群という病気はない』というロジックが成立するならば
世の中に『風邪』という病気もないことになる
モラハラ、DVによる適応障害ならば、相手の悪意に気付けるでしょう
しかしASD相手となると悪意を感じないので、自分の気持ちのやりどころ、原因がわからず大変苦しみます
それを救ってくれるのがカサンドラ症候群という言葉なのです

HIRO
ASDの自他境界の話
ASDは自他境界が曖昧ということを聞いた
以前、母の日の話もそれで説明がいく
一つとのことしかできないがために、他者の視線に行かずに、他者の気持ちがわからないというのも説明がいく
自他境界とはなんなのか?
それは他者と自己の境界のことで
極端にいえば
『私はラーメンが好き』
ということと
『他の人はラーメンはどうなんだろう?』
この境界が曖昧なのである
境界が曖昧な視点から言えば
『私はラーメンがすき』
これで終わり
周りのみんなはどうだろう?がない
『母の日は意味がない』
これで終わり
母が感謝されたらどう思うんだろう?がない
ASDが自分の特性を認められない人が多いというのも
自己の特性を自認できていなくて
自分はこういう特性がある→周りもそうなはず
とういう視点だからである
自分の意見は常に正しく
世の中の他の人も同じ考え方だと感じているらしい

HIRO
ASDの人たちの中での違和感価値観
ADHDの人たちとの違いについて
それは脳の仕組みにある
ADHDはまず自分がする行動のコントロールが難しかったりする
そしてその行動のエラーを自分で認知し、失敗を失敗として認識することができる
この認知は定型発達と何ら変わりはない
ではASDはどうなのか
これは完全に認知の違いからきているので
間違いを間違いと認知できないところにある
例えば認知症のおばあちゃん、目の前の孫をみて、自分の娘の名前を呼ぶ
このおばあちゃんには目の前には娘がいるのだ
なのでどんなに間違いを説明しても理解はできない
これと同じことがASDにも起きていて
自分の思考、考え方などに違和感がないので
自分の正当性を曲げず
間違いなどを認めることができない
以前も言ったが、目の前にりんごがあるのに
レモンと言い張る
これはASDがいいわけしたいわけではなく
ASDにはレモンにしか見えていないのだ
(もちろんASDがりんごとレモンを見間違えることはない)
ASDのこだわりとか、頑なにさとは
自分の中の認識からきている
定型とは見えてる世界がまず違うと言うことが理解できてないいないのではないだろうか
(もちろん、それをわかっているASDの方もいる)
ASDのこだわりは定型社会との認知の差
と思っている人もいるようだが
ASD同士でも認知が違うので
定型社会がではなくて
他者と関わり続ける限り
認知の違いで困りごとが生じてしまうのだ

HIRO
ASDの人の中に
『ASDは定型社会に適応できなくて困っている
ASD社会でなければ発達障害者ではない』
と考えている人がいる
確かにASDが1人の時間で、過ごす分には発達障害は問題ないだろう
ただ、この社会は文化的であり
社会的
1人で生きていくことはできない
ただ、これが定型社会だからではない
これがASDだけの社会だとしても
生きづらさはまったく変わらない
ASDの中で集団的をもとめることにより、合理的社会的規範を作り
その規範で苦しめられていくのだ
ASDの生きづらさは
定型社会のせいではない

HIRO
ASDの思考の一例
『記念日の意味がわからない』
ASD本人からすると意味のない日だと思っていたりする
ただ、その日は基本的に自分1人の価値観で行われるものではない
例えば母の日
母の日は感謝を『伝える』日であり
感謝する日では無い
誕生日は誕生日がおめでたいわけではなく
生まれてきてその年齢に達したことがおめでたいのである
まず、それのことに意味を見出せない
それは価値観だから仕方ないことだろう
もちろん、定型でもそういう人はいる
ただ、ASDは母気持ちとか、生まれてきた子供の気持ちがわからない傾向にある
『自分にとって意味のないことだから』
であり
相手にどういう影響を与えるかではなく
自分にとって意味があるか無いかで考えがちになるようである
『母の日とかやる意味がわからない。感謝は強制されてやるわけじゃ無いし。』
定型からしたらこれは空気の読めない発言に見えるし
冷たい人間に見えてしまう

HIRO
ASDの自分中心というか
自分目線の考え方の原因もわかってきた気がする
察する、空気を読むって言い方がそもそも間違っていて
最初の一個で止まってしまうということ
『集合!』は集合までしかなくて
静かにする、話を聞くができない
集合
では静かにしてください
話をします
という指示が正しい
自分目線っていうのも
その一つで
自分はがまず最初にくる
そしてそれに対して周りがどう考えるとか
そこまでは考えられない
一つのことしかできないが根本的にあって
それがいろんな物事へ波及してるという考え方が正しいのかもしれない

HIRO
差別の話や
その他の話題でASDの人がよく使う『ASD当事者』という言葉がある
差別の話題のときに話してるのは『差別されてる人』が当事者であって
『ASD当事者』の話はしていない
ASDはいつも主役は自分なのだ
結局ASDで自分自身でASDを認めたくなくて
ASDを一番差別しているのはASD本人なのかもしれない
できないことがあるという認めてほしい部分と
できないことがあるという認めたくない部分が
自分の中で軋轢を生んでいるのかもしれない

HIRO
基本的に疑問なこと
ADHDやその他障害のあるかたと
発達障害を理解しようとする定型発達の人との間にそんなに軋轢が生まれることはないんだけど(多少なりとも存在はするが)
ASDと定型の間には軋轢が生じる
これはどういうことなんだろうか
おそらくASDの特性によるものなんだろうなと
これは実は定型対ASD間の問題ではなく
ASD同士間でも起こりうることであるらしい
その原因はASDの人の特性の自認の低さにあるのではないだろうか
認知しているかではなく、認知したくないというところ
そして差別だという人も多いし
定型とASDはグラデーションで変わらないというは人もいるが
明らかな一線があるのは間違いないと感じている
同族嫌悪ではないが
ASDがカサンドラのつぶやきを見て、嫌な気分になるのは
多分そういうことなんだろう
