嘆溺
虚しいときだけ言葉を吐き捨てに来ます!
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自分はこんなものではないはずなんだ。幸福を希求するべきなんだ。
と、
自分の現状は恵まれているんだ。だからそれを投げ売って出るような真似はするな。何もかも失いたいのか。今まで培ってきたものさえも失いたいのか。
ただひたすら行ったり来たり。
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そしてそれらには「はたしてこれは身/実になるのか」「成長の糧になっているのか」という問いが常に向けられるだろう。
教え手は言うんだ。「君はこんな恵まれた環境を用意されておいて『身にならない』などと言うのなら、それは自分自身に非があるんじゃないか?自分自身が『身にする』よう良くしていかなければならないんじゃないか?」と。
何も間違っていないのかもしれない。不足も苦労もほとんどせずに場を設けてもらっておいて、それでも成果を果たせない自分が惨めで情けないと、恵まれて育ったからこそ幾度も感じてきた。
しかし同時に怒りも湧いた。
ただただこちらの首を締め付けようとしてくるその姿勢に対して、答えられるものを持ち合わせていなかった。無責任で具体性に乏しい根性の押しつけに、ただただ心労が募るばかりであった。
ここは一度、頭が悪くなったことにして、笑顔で「くだらない」と踵を返そう。
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ただ、社会が求めているのはそんな人じゃなくて、天日干しした布団をバサバサ叩くように言葉を連ねられるひとなのだろう。なるべく早く、的を射たことを、相手の求めている返答のままに返せる人。流鏑馬みたいなコミュニケーション。そんな人ばかりで、息が苦しい。
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相性がいいと今思っているあのひともかのひともそのひともこのひとも、きっとどこかをすり合わせて相性のいい一部分を無理矢理見つけ出しただけで、分かりあえるものなんかじゃないんだろう。
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胃袋をにぎられれば、幸せをにぎられる。
わたしの幸せをあなたに全てにぎらせて、ふわり浮いていたかった。
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てか自分てなんだったんだ…?ってなります。
長いこと共に暮らしていた人がいなくなったこの部屋には、もう他者/外部からの意図を持った施しによる、状態の更新がなされず、時間が止まったような気さえすることがあります。
何度も冷蔵庫を空けようとする感情も、のどがかわいていないのに水を飲みに居間に行く手持無沙汰の挙動不審も、心の奥底で「安心」を求めていたんだと思い知らされる。
それが突然消えてしまった。自分の好きなものが何でもわかりきっているかのような存在に、小さな幸せを日々無償で、こちらから一切の作用を施さずとも享受されていたことに、贖罪の念が絶えない。しかしもはやなにもできまい。ただこの部屋に一人わたしがいるのみ。
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自分を取り巻く周りの環境や、これまでの過去の出来事が今の自分を作っているのだ、と信じ込んで、その責任は自分にあるのだと自分自身を糾弾する。
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そういうのを上手く利用できるような人でこの世は溢れてて、自分もそっち側で生きて見たかったと思う。ひ弱なだけの人間
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毎日のように怒りを覚えていたあの家でのことも事実で、それでも己の父親であったのだということも事実で、もう今更もとには戻らない取り返しのつかない時間・季節に来てしまったのも事実。
そう遠くない未来に父がこの世を去れば、その後の俺の人生には永遠に黒い悔恨の染みが残るだろう。しかしそれを打ち立てる手立てはない。彼の不器用さの血を継いでいる自分には、それが不器用故なのか、もう既に本当に見放されて会う気も大して無いのか…、掴みきれない。会う気があれば、あの時のように図々しく、無理にでも連れてこさせようとするのではなかろうか。それでもしてこないのが、彼なりの思いやりなのだろうか。時々夢に見る。母と父が寄り添い合っていた世界があったならば、そこにどれだけ当たり前に感ぜられる幸せがあっただろうか。私がいくら歳を重ねても、私の両親はずっと両親。時々、そんな家族の形がもう壊れていることに対して、えもいわれぬような途轍もない喪失感に苛まれる。家族のつながりは呪いにも安らぎにもなりうる強固で、頼もしくて、厄介でもあるもの。楽しかったかつての家庭は、どこへ行ってしまったのか。もしかして自分に原因があったのではないか……?後戻りはできない。そう割り切っていても、たらればの世界に夢を見てしまう。
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じゃあ一体どうやって魅力とやらはつけられる…?どうやったら君に寄り添って勇気づけられる並の身分になって生きて行ける…?
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