どの変化が来ても、なるようになるしかない。目を開いて見極め続けるしかない。流れはどうしても出来てしまう。しかも何も出来ず、流されるしかないことの方が多い。少しの抵抗や場所を変えれば流れが変わったりもするけれど。落ち込んでも、怖がって何もしなくても、止まることはない。ただただあれよあれよと突き進んでしまう。備えられたら防げたはあるかもしれない。備えたらある程度安心かもしれない。でも防いでも次の波は来る。どんどんどんどん波は来る。ならば波を防ぐのではなく乗り越える力、意志が必要に思う。乗り越えられなかったら死。でもそれこそ生命じゃないだろうか?
見た感じ中道は民主だった頃の勢いがない無難なところで止まってる感じ。世界に取り残されるし、強い日本にはならんやろな。とりあえず波風立てずに存続しようって感じ。自民は具体的で経済路線。技術やインフラに金をかけ、便利で豊かを目指してる。でも高齢者や移民について言及ない。労働者ファーストにしたか?世界についていくならここだろうな。参政が一番賛同できるけど具体性なし。良くも悪くも暮らしやすさを重視した改革をあげてる。ただ実現できるの?という疑惑はついてまわる。
僕はまた引っ張られる。僕のまわりのものに。僕の想像の範囲内の思考に。僕は外に出たい。僕の境界の外に。僕に向けたなにかに反応し、僕の目に勝手に映った何かに反応し、僕が気にしてることに反応し、そこから抜け出せないのは、縛られてるのと同じだ。
僕は“成功”したくない。評価したくない。ただそうありたい。善悪でも、成功失敗でもなく、意味づけすることも、説明と必要なく。あえてそれに名前をつけることも、言葉にする必要もなく、してもいいし、しなくてもいいし、曖昧で不安定だけど、瞬間瞬間ごとにあるその確かさを感じたい。僕が生きてると思いたい。僕などというものはきっとない。あったとしてもそれはきっと点のようなもので、かき集めては剥がれ落ちを繰り返した、おだんごのようなものだ。そのかき集め方に僕は、拒否反応を示し出している。こうしたほうがいい、こう生きればうまくいく、これは人としてダメだ。理屈はわかる。僕も正しいと頭では思う。体が拒絶している。
お前は今どこにいるんだ。僕は今ここにいる。お前はここにいない。いや僕はここにいる。たしかにここにいる。違う、外側に引っ張られてお前は空っぽだ。違う僕は適応してるんだ。適応?その我慢も適応か?何かは諦めなきゃ生きていけないよ。総取りは無理だ。本当は強欲なくせに、利口ぶるのか。これでも多く受け取れている方さ。どこか空虚さを感じていてもか?そうやって繋ぐ道しか僕は知らない。ぶち壊してみろよ。親が悲しむ、世間から冷たい目で見られる、居場所を失う…かもしれない。だから…だから何だよ。これが今は僕なりの生き方だ。違うね、ならどうして苦しむ。それでも望んでしまうからさ、夢見てしまうからさ。実現させればいい。そう簡単にはいかない。何でもは無理だ。姿勢の話をしてる。僕は諦めから入ってるって?夢は見るのに叶えようとしていない。それはあるかもしれない。だから苦しむんじゃないか?別に苦しむことは悪いことじゃない。それに叶えたとてそれすらいずれは無駄になる。だが生き様はちがう。そんなもの無意味だ。どんなものでも無意味だというなら我を貫いてもいいだろ。お前はそれでも周りを気にしてうまく行くようあわせている。それの何が悪い。お前はもっと羽ばたけるんじゃないかと言っている。僕ははばたく意味がないと言っている。意味?アホか、感じたまま動いてみろよ。そんな事したら僕は壊れてしまう。僕は考える事で体裁を保ってきたんだ。ぶち壊れたい気持ちと怖さが半々でぶつかり合う。僕はまた作り上げた虚像の中に隠れながら、沸々と心に荒波が立つのを感じている。
外に意識を向け過ぎると、価値基準が外に向く。あの人がこう思うに違いない。この場はこうした丸く治る。こうしたら喜ぶだろう。これらは打算だ。僕の価値基準はそこにはないだろ。僕がしたいからする。僕がしたくないからしない。これだけ。すべき、した方がいいはノイズ。したいかしたくないか。それだけ。
ゾッとする違和感。恐怖。意味不明さ。狂気。気持ち悪さ。醜悪さ。嫌悪感。僕が思わず避けてしまうこと。もの。きっと僕に新しさをくれるものがあるとしたらそういうものだろう。嗚咽を繰り返しながらそれらに触れ、自分の一部と出来たならなにかが変わる気がする。
選ばされている。それがつまらない。生み出したい。ずっとずっとそう感じていたのだろう。僕はずっとずっと。でもまだ僕は、選ばされている。生み出せていない。なにも形にできていない。その選択肢にない何かを生み出したい。形にしたい。
何がしたいとかない。自然と向き合いたい。人ではなく、生と向き合いたい。社会体制ではなく、世界と向き合いたい。僕は役割の外に生きたい。守られたくない。追われたくない。楽したくない。生かされてると思いたくない。生きてると思いたい。こんなちっぽけだけど、必死に生きる自分を僕はただ感じたい。そしてアホみたいにくたばりたい。
僕は嘘で友達になり、嘘で恋人をつくり、嘘で社会に溶け込み、嘘で今も成り立たせている。本当は⚪︎⚪︎したくない/本当は⚪︎⚪︎したいを飲み込んで。もしこの社会でまっとうに生きることを棄てるなら、僕はぶらぶらと歩き回るだろう。そして自由気ままに生きるだろう。宿は野宿でもいいし、風呂は水浴びでいい。釣りして、採取して、それを食べて寝て起きる。荷物は背負えるだけ。でもきっと釣りは密猟になるし、場所によっては不法侵入とかにもなるんだろうな。危険で野垂れ死ぬかもしれないのは承知の上でも親が生きてるうちにしたら迷惑かけるだろうな。うまく隠れないと通報もされて、元の社会に戻されるだろうな。色々問題ありだ。ほとんど誰も来ない島に行けたならありえるけれど。
どこへ向かうのか。その方向性を常に求めている。その為の判断、その為の評価。その為の信念。その為の信心。決めたとて大きな方向性の波が、僕のすべてを飲み込み歪める。僕自身もその大きな方向性の波の一つとなって誰かを飲み込む。そもそも自分なんてものはないのかもしれない。むろん知覚できる範囲の自分というものはある。この痛み、苦しみ、感覚を知ったのは僕だけだ。でも近似値なんて他人もきっと出してるだろう。僕は僕の担当をしてるだけ。この持ち場を僕が担っているだけ。いつかその担当を終える日もくる。ここの持ち場は俺の持ち場、そこの持ち場お前たちの持ち場。それだけ。その持ち場をどうやって運用しようか、その判断を絶えず求められている。いや求めているのは、僕だ。僕の判断が。僕の意思決定が。僕の覚悟が。それだけが意味がある。僕にとってはそれだけにしか意味がない。それだけを望んでいる。
つまらない、さむい、意味がない。そう僕が分類した。僕が分類した。でも本当か?活かそうとしてないだけ。死んだものとして扱ってるだけ。活かす必要はないけれど、そのポテンシャルを活かせてないだけ。すべて殺す必要はない。捨てるのは簡単。でも簡単に捨てていいものか?僕に与えられた時間に対して与えられるものが多すぎるから、捨てていかなければならないのだけれど。
生きることは考えることじゃない。感覚として伝わってくるものなんだろう。疲れ、興奮、痛み、不快感、心地よさ、脈、肺のふくらみ、ピリつき、温度、音と距離…絶えず発生しているこの連続。これが生きる。僕はこれを心地よく思う。どんな感覚も結果心地よいのだ。僕が悩む生きるは、社会的な存在意義としての生きる、だ。僕はどうふるまうべきか、どう振る舞いたいかの生きるだ。これは感じることができない。実態のない。曖昧な存在。立場など簡単に変わる。変えられる。でも変えたところで意味はなくて、望む形にもそう簡単にはできなくて、なったとしてもそれを保つのは難しくてこんなことで悩んで死にたくなる。生きるの前提は全肯定で、社会が絡むと僕はしどろもどろになる。僕はやりたいことなんてない。役に立ちたいとも思わない。ただ生きたいだけ。生きたいだけ。生きたいだけ。
結局思考には手触りがない。飽くまでそれらは脳内の処理であって身体は置き去りにされる。空虚の正体は、結局のところそれらには温度がないから。その思考が肉体とリンクしていないから。重要なのは見て触れること、全身を使って感じること。風が、寒さが、音が、日差しが、なんて一言ひとこと表さなくていい。むしろ言葉にはしないほうがいい。それらが心地よくある必要もない。思考と感覚をリンクさせる。それだけでいい。
僕は相手と接する時、相手の空気を見た。触れずに否定せずに、相手を直視しない。当たり障りのない距離を探す。それが僕なりの尊重である。ただそれは相手をよく知ろうとしないことであり、相手がどうなろうと知らん顔できる距離でもあって、摩擦や問題ごとを即切り離せるので都合がいい生き方でもあった。父は相手と接する時、対象として見ていた。父は口うるさく、こだわりの強い人間だ。鍋の時は大根がないと騒いでスーパー梯子したし、雨の日に車を出したら必ず洗車しなければ不機嫌になった。正直父が苦手だった。すぐ怒鳴るし、そこまでしなくてもと思ったし、なによりそんなことでまわりの空気を壊す父に怒りすらあった。でも思えば、あれは対象をよく見た父なりの愛情が深い行動だった。僕はこだわらない生き方をしてきた。父はこだわる生き方をしてきた。僕は衝突を避ける生き方をしてきた。父は真正面からぶつかる生き方をしてきた。僕は今も父が苦手だ。でもその生き様の片鱗を今少し理解した気がした。
きっと生まれた時からずっと胸のざわつきがあった。それを僕は誰かになだめてもらうか、自分でなだめて生きてきた。ざわつきの正体はなにか?きっとそれは僕の中で生きてる鼓動。僕であり、僕でないもの。“彼”とでも呼ぼうか。“彼”は定期的に騒ぎ出す。“彼”が騒ぐと左の胸の辺りに苦しさが込み上げて呼吸も苦しくなる。“彼”はこのざわつきの呼びかけを通して、僕に対して「なんとかしろ」と絶えず言ってくる。排除するなり、撤退するなり、懐柔するなり、とかく脅威をどうにかしろと。まるで赤子のように。僕は何もする必要はないと考えているのに。きっと僕が赤子だったというよりこいつがずっと僕にまとわりつく赤子なんだ。生きてる間はそいつの子育てをずっとしてるようなもんなんだろう。でもきっとこいつのおかげで助かった場面も色々あったんだろう。僕ではない僕が僕の中にいる。ちがうか、僕が“彼”の中にいるのかもしれない。だとしたら僕は“彼”のサポート役なのかもしれない。主役は“彼”、僕は“指導”するだけ。
意見が食い違うのは普通なんだなと、当たり前のことを感じる。その上でよくこの世の中は出来ている。でも、結局 “Everybody wants to rule the world“だな。僕もそうだ。割を食ってる感じがしている。でもきっと僕には普通のことでも、すごく苦しんでる人が居たりするんだろう。逆に僕が苦しんでることを平気で居たりするんだろう。なんだかへんてこだ。すごくへんてこだ。
客観的にみて寂しい人間であるのに、主観的にはその方が幸せなのが不思議なものだ。不思議でもないか、自分勝手で人が離れることより、人に好かれる為に相手に合わせるほうが不幸に自分は感じてしまう。このスタンスが社会的によくないのなんて、自分がよくわかってる。間違いなく吊られる。煙たがられる。いいことなんて何にもない。人狼ゲームなら即吊りだろう。今の「やさしい社会」でなければ僕の人生即詰みだったろう。内心軽蔑してるだろう。でもそれでいい。その方がいい。僕もそんな奴がいたら軽蔑する。でも僕は軽蔑するが、理解はする。こっちはとても気持ちがいいんだと知ってしまった。僕が彼らを軽蔑してたのは、僕はこんなに頑張ってるのになんでアイツはあんな自分勝手なんだということに対する僻みに似た非難だ。この世界はみんなの頑張りで成り立ってるのに、なんでアイツだけって思ってた。僕は後ろ指を刺されることを恐れていつも支える側を選んだ。でもこんなに気持ちのいいことだったとは。多分溜まっていた行き場のない恨みをこうして晴らす事が今できたんだろう。
仕事を休んだ。今日仕事ほぼないみたいだから時間が勿体無く感じて。無論仕事だからそれでも会社に残るのが正解だろう。社会人としての正解は知ってるつもりだ。でも僕は休むことを選んだ。休みたいからというより、そうすべきと感じた。そんな直感が今日はした。休んで他のことをしたいとそう思った。普段なら面倒に思うことを今日はやりたくなっている。なぜだろうか?たぶん怖くなったんだ。この微妙さを抱えたまま死ぬかもしれないと言う事実が無性に怖くなったんだ。このまま死んだら後悔する、そう思ったんだ。後悔したからといってどうってことはないのだけれど。僕はきっと反抗期の子供のようなものだ。やりたいことがずっとわからない、やりたくないことはわかるのに。そして逆説的に自分のやりたいであろう方向を導き出してる。社会への反発が自分のアイデンティティを導き出している。とんだ傍迷惑なヤツだと自分でも思う。でもそれが僕なのだから否定しても意味がない。隠しても意味がない。忘れたふりをしても意味がない。
寿司も食べたいわけでもないのに、回転寿司屋に行き、寿司以外のものを注文する。そうしてるうちに寿司が食べたくなるけど食べないでそのまま会計して帰る。そのもどかしさに面白さが込み上げる。梶井基次郎の檸檬ではないけれど、こんなしょうもないことで僕の気持ちは晴れたりする。まともであることの窮屈さがほんの少し緩和された気になる。僕にとっての幸せとは愚かさだ。僕は思った。ちょうどいい愚かさを探そうと。それが僕にとっての救いになるから。窮屈すぎる決まり事の世界で僕が呼吸できるようにする為にはそれが必要だから。