

神々の声が聞こえぬ世界で、運命に抗う者たちの物語が始まる――
『幻界戦記』は、王子、少女、青年、精霊獣たちが織りなす、壮大な幻想戦記。
“見える者”と“見えぬ者”の交差が、世界の真実を暴いていく。

tadashi
第一章 森の中で
この世から神がいなくなって、どれだけの月日が流れたのだろう。
そもそも、人間はいつから「神」という言葉を忘れたのだろうか。
吹き抜ける風が、乾いた黄土の匂いを運んでくる。
草に埋もれた街道の脇には、刃の零れた錆びた剣。
かつて祈りが捧げられたであろう石の祭壇は、太い木の根に裂かれ、半ば土へと還っていた。
打ち捨てられた鉄くず。
風に舞う砂。
崩れた石垣。
そこにあるのは、息をひそめるような静寂だけだった。
†
ふっっふ。
暗がり。
耳には届かない。
肌の表面を、冷や汗のような気配が這う。
胸の底で、何かが囁いている。
怒れ。
妬め。
苛立て。
粘りつく吐息が、暗闇に満ちていく。
†
深い青の中だった。
水底なのか、夜の暗がりなのかも分からない。
冷たく、泥のようなものに身体が沈んでいる。
声が聞こえる。
遠いはずなのに、鼓膜のすぐ裏側で囁かれているようだった。
『あなたは、何も悪くない』
掠れた声。
泣いているようでもあり、すべてを諦めたようでもあった。
『すべては、わたしが犯した罪』
青い世界が、ゆっくり揺らぐ。
『だから――あなたはもう、自分を責めないで』
手を伸ばそうとした。
だが、指先という感覚がない。
声を出そうとしても、喉が動かない。
待ってくれ。
そう叫ぼうとした瞬間――
「う……っ」
青年は目を覚ました。
葉の隙間から差し込む太陽の光が、視界を焼く。
「……っ、ふ……」
頭の奥が割れるように痛んだ。
身体を起こそうとした瞬間、背中に激痛が走る。
呻き声を漏らし、草の上へ倒れ込んだ。
その背中に、柔らかな温もりが触れた。
少女の手だった。
小さな掌から、じんわりと温かさが広がっていく。
痛みが、少しずつ引いていった。
青年が横を見ると、少女は静かに首を横へ振った。
「……分かった」
青年が力を抜くと、少女は手を離した。
そして傍らの器を取り、青年の口元へ運ぶ。
澄んだ湧き水だった。
冷たい水が、乾ききった喉を潤していく。
「ありがとう……」
少女は答えない。
ただ、青年を見つめていた。
「ここは……?」
少女は困ったように眉を下げ、自分の喉へ指を当てる。
そして、首を横に振った。
「……喋れないのか」
少女は頷いた。
「そうか。無理に話さなくていい」
青年は自分の手を見つめた。
白く、傷のない指。
名前を思い出そうとする。
けれど――
何も浮かばない。
名前も。
過去も。
自分が何者なのかさえ。
「俺は……」
言葉が続かなかった。
底なしの空虚が、胸の奥に残っている。
少女は何も言わず、その隣に座っていた。
†
森の奥には、苔に覆われた古い祠の跡があった。
崩れた屋根の隙間から光が落ち、ひび割れた石段には青々とした苔が広がっている。
青年は、そこで数日を過ごした。
傷が痛めば眠る。
目覚めれば、少女がいる。
ただ、それだけだった。
けれど、いつからか。
目を覚ますと、まず少女の姿を探すようになっていた。
ある昼。
少女が、すり潰した薬草を器に入れて持ってきた。
嫌な匂いがする。
それでも、少女のまっすぐな視線に負けて、青年は口に含んだ。
「うっ……!」
強烈な苦さに顔を歪める。
涙目になった青年を見て、少女がほんの少しだけ肩をすくめた。
まるで、
――やっぱりね。
そう言っているようだった。
「……お前、今笑っただろ」
少女は答えない。
ただ、口元だけで笑った。
青年は、思わず吹き出した。
声を出して笑ったのは、目覚めてから初めてだった。
少女は少し驚いたように瞬きをし、それからまた笑った。
声のない笑いだった。
けれど、それはどんな言葉よりも確かに青年の胸へ届いた。
†
別の日。
湧き水を汲みに行こうとした青年が、濡れた苔に足を滑らせた。
身体が傾く。
その瞬間、横から手が伸びた。
少女が袖を掴んでいた。
「……ありがとう」
少女は手を離し、何事もなかったように歩き出す。
その背中を見ながら、青年は思った。
この少女は、いつもこうして誰かを支えているのだろうか。
迷うこともなく。
当たり前のように。
†
夜。
二人は崩れた祠の軒先に並んで座っていた。
少女は焚き火を見つめている。
青年は、その横顔を時折眺めていた。
言葉はない。
それでも。
冷たい水。
手のひらに乗せられた木の実。
薬草の苦さ。
そして、隣にいる少女の体温。
そんな小さなものが積み重なるたび、
青年の胸にあった冷たい空白が、少しずつ薄れていった。
†
ある朝。
青年の足から痛みが消えていた。
森の入り口まで歩く。
木々が途切れた先。
遠い地平線の近くに、薄く煙が立ち上っていた。
「……街か」
青年は呟いた。
後ろにいた少女も、煙を見つめている。
「俺は、あそこへ行ってみようと思う」
少女が青年を見る。
「自分が誰なのか、探さなきゃいけない」
少女は黙っていた。
そして、自分の胸に掌を当てる。
次に青年を指差し、
最後に、森の外へ続く道を指した。
「……一緒に来るか?」
少女は迷わず頷いた。
「危険なことがあるかもしれない」
それでも、少女はもう一度頷いた。
青年は、しばらく少女を見つめた。
「……分かった。一緒に行こう」
少女の頬が、わずかに緩む。
「俺は、俺を探す」
青年は街へ続く道を見た。
「君の帰る場所も、きっと見つけよう」
少女は小さく頷いた。
そして青年の隣へ、一歩踏み出した。
†
森の出口。
一歩、外へ出ようとした瞬間だった。
青年の足が止まった。
少女も同時に立ち止まる。
風が途切れた。
さっきまで鳴いていた鳥の声も、潮が引くように消えた。
「……っ」
青年は胸を押さえた。
遠く。
地平線の彼方。
そこから、何かが届いている。
音ではない。
光でもない。
ただ、空気の密度が変わっていた。
身体の奥にある何かが、その方角へ引かれている。
ふと横を見る。
少女の手が、青年の袖をぎゅっと掴んでいた。
少女もまた、同じ場所を見つめている。
青年は、その手に自分の手を重ねた。
温もりが、指先へ伝わってくる。
なぜ気になるのか。
分からない。
それでも。
あの方角へ行かなければならない。
そんな感覚だけが残った。
「行こう」
少女が頷く。
名前もない。
過去もない。
それでも二人は並んで、森の外へ続く道を歩き始めた。
†
まだだ。
誰かの迷い。
誰かの焦燥。
誰かの望み。
黒い煤が、静かに舞う。
ひとつ。
また、ひとつ。
擦れ合う。
想いが重なる。
揺らぎが満ちていく。
まだ――
終わってはいない。

tadashi
プロローグ 世界最初の約束
誰も知らない。
誰も観たこともない。
誰も聴いたこともない。
そんな世界が――
ただ、そこに在った。
天の上に、天があった。
地の下に、地があった。
その世界を、誰かが必要としていたわけではない。
誰かのために創られたわけでもない。
ただ――
創造神の『あそび』だった。
創造神は、その『あそび』を拡げるため、己の創造を三つに分けた。
天は、天の神へ。
空を広げるために。
海は、海の神へ。
空いた場所を満たすために。
大地は、大地の神へ。
そのすべてを受け止めるために。
それだけだった。
山が生まれた。
川が流れた。
森が広がった。
花が咲き、やがて枯れた。
神々は、それを眺めていた。
ときには形を変え。
ときには、何もしなかった。
世界は、遊びだった。
少なくとも――
その頃までは。
⸻
ある年。
雨が、降り続いた。
何日も。
何十日も。
大地は泥に沈み、麦は実らなかった。
村から食べ物が消えた。
子供たちは泣き、大人たちは空を見上げた。
その中に、一人の少女がいた。
少女の手には、わずかな食べ物があった。
少女自身も、空腹だった。
それでも――
少女は、それを隣に座っていた小さな子へ差し出した。
「さぁ」
子供は首を振った。
「お姉ちゃんは?」
少女は、少しだけ笑った。
「私は、大丈夫……」
自分が空腹であることを忘れたわけではなかった。
ただ。
目の前にいる子供のほうが、先だと思った。
それだけだった。
その言葉を、
聞いていた神はいなかった。
いや。
ただ一柱だけが、
見ていた。
⸻
天の神。
それが、本分だった。
世界を照らす。
空を見守る。
すべての民草を、等しく照らす。
ただ、それだけ。
けれど、その日から。
神の目は少しずつ変わった。
世界全体ではなく、
一人の少女を追うようになった。
少女が誰かへ食べ物を分ける。
泣いている子供を抱く。
倒れた者へ手を差し出す。
そして、助けられた者が笑う。
少女も、笑う。
そのたびに。
天の神の中に、名前のない何かが残った。
少女が笑うと、空まで明るくなったように感じた。
少女が悲しむと、空まで曇ったように感じた。
神は、その理由を知らなかった。
ただ、少女を見ていた。
今日も。
明日も。
その次の日も。
いつしか――
世界を見るより、少女を見る時間のほうが長くなっていた。
⸻
いつしか、神は民草へ幻子を授けた。
形のない可能性。
願いによって。
選択によって。
その姿を変えるもの。
その瞬間。
神の中にあった、名前のない何かが、少女の心とわずかに重なった。
一度。
そして、もう一度。
どちらが先だったのか。
どちらのものだったのか。
少女にも、神にも分からなかった。
ただ。
少女の胸の奥にあったものと、神の中にあったものが、少しずつ近づいていった。
それが――
最初の繋がりだった。
⸻
雨は、止まなかった。
少女は、それでも人々へ手を差し出した。
泣いている子供を抱いた。
食べ物を分けた。
倒れた者を起こした。
けれど。
一人を助ければ、
その隣で、また一人が倒れた。
「お願い……」
少女は、手を伸ばした。
けれど、その手を握る力さえ、もう残っていなかった。
やがて、その手が静かに落ちた。
少女は俯いた。
それでも、そこに座り続けることはしなかった。
立ち上がった。
そして、また歩いた。
誰かを助けるために。
少女には、それしかできなかった。
⸻
ある日。
誰かが少女の肩に触れた。
「もう休め」
少女は、その手を振り払った。
「まだ……」
振り返らない。
「まだ、できる」
それは、誰かに言った言葉なのか。
自分自身に言った言葉なのか。
少女には、分からなかった。
そのとき――
海が、動いた。
⸻
雨が降った。
けれど、それまでの雨とは違っていた。
冷たくない。
重くない。
ただ静かに、大地へ染み込んでいった。
川が満ちていく。
乾いていた場所へ、水が戻っていく。
畑に、潤いが戻る。
風が吹き、雲が流れ、空が少しずつ開いていく。
人々が顔を上げた。
泣いていた子供が泣き止んだ。
倒れていた者が身体を起こした。
「水だ……」
誰かが呟いた。
「水がある……」
やがて、人々の中から声が上がった。
「ありがとう……」
誰に向けた言葉なのか、分からなかった。
それでも、一人が手を合わせると、また一人が手を合わせた。
少女は、その光景を見ていた。
自分が一人ずつ救おうとしてきた人々。
その人々が今、同時に救われている。
少女は、何も言わなかった。
ただ、その光景を見つめていた。
⸻
天の神も、それを見ていた。
人々を。
大地を。
海を。
そして――
少女を。
その瞬間。
神の中で、何かが止まった。
少女は、目の前にいる一人へ手を伸ばしていた。
海は、そこにいるすべてへ、等しく施していた。
どちらも、誰かを救っている。
けれど、違っていた。
その光景を見て、天の神は初めて自分を見た。
世界を照らす。
それが、自分の本分だった。
なのに。
いつからだろう。
自分は、世界ではなく、一人の少女を見ていた。
少女が笑うと、自分まで満たされた。
少女が苦しむと、自分まで苦しくなった。
少女が誰かを救うと、まるで自分が救ったように感じていた。
違う。
それは、自分の本分ではない。
神の中に、初めて明確な痛みが生まれた。
私は、
世界を照らしていたのか。
それとも。
一人の少女だけを、見ていたのか。
答えは出なかった。
ただ、その問いだけが、
神の中に残った。
⸻
その瞬間。
少女の胸の奥でも、名前を持たない熱が形をとった。
それが自分のものなのか。
繋がりの向こうから届いたものなのか。
少女には分からなかった。
ただ。
少女は、それを拒まなかった。
天の神が感じたもの。
少女が感じたもの。
どちらが先だったのか。
もう、分からない。
二つの心が、同じ痛みを感じていた。
少女は、人々を見た。
笑っている者。
泣いている者。
助かった者。
助からなかった者。
そして、自分の小さな手を見た。
もっと。
もっと何かできれば。
もっと強ければ。
もっと救えれば。
その思いは、変わっていなかった。
けれど――
その善意は、少しずつ重くなっていた。
⸻
「足りない」
少女は、その思いを強く握った。
まだ、足りない。
もっと、できるはず。
世界を救うためなら。
何かを失っても。
何かを壊しても。
それでも。
少女は、手を伸ばした。
幻子の奥で、何かが混じった。
透明だったはずのものに、小さな濁りが生まれた。
少女は、それを恐れなかった。
それが何なのか、知らなかったから。
ただ、
これがあれば。
もっと救える。
そう思った。
幻子が、揺れた。
大きく。
深く。
そして――
少女の胸から、黒い粒が零れた。
ひとつ。
また、ひとつ。
やがて、数え切れないほどの黒い粒が空へ舞い上がった。
少女は、それを見つめていた。
怖かった。
けれど、逃げなかった。
自分の中から、何かが生まれた。
(※少女自身の誤認としての主観描写)
「……どうして」
誰にも届かない声だった。
黒い粒は、風に乗り、空へ昇り、世界の彼方へ散っていった。
⸻
天の神は、それを見ていた。
その光景を前にして、神は自分の本分を思い出した。
世界を照らす。
それが、自分の役目だった。
少女だけを見つめることではない。
神は、空を見上げた。
けれど。
少女との繋がりは、消えなかった。
むしろ、少女の心と深く重なっていた。
⸻
海は、満たすもの。
大地は、受け止めるもの。
天は、照らすもの。
三柱は、それぞれの本分へ戻っていった。
やがて海は、四柱の精霊神へと分かたれ、世界を見守るものとなった。
そして天は――
世界に、蓋をした。
閉じるためではない。
消すためでもない。
ただ、そこにあるものを覆うために。
少女の幻子からこぼれた黒い粒は、封じられた場所の奥へ落ちていった。
ひとつ。
また、ひとつ。
けれど――
消えなかった。
一粒も。
⸻
少女は、俯いていた。
自分が何を生んだのか。
それが何なのか。
まだ、名前さえなかった。
それでも。
少女は、もう一度だけ願った。
どうにかしたい。
自分が生み出してしまったものを。
自分が壊してしまったものを。
それでも。
少女の胸の奥で、何かが輝いた。
それは、神から与えられたものではなかった。
少女自身の幻子だった。
淡い光が身体から溢れ、黒い粒を照らした。
けれど――
消しはしなかった。
黒い粒も残った。
その光も残った。
少女は、それを見つめていた。
頬を、一筋の涙が伝った。
涙は、地面へ落ちなかった。
少女の幻子の奥へ、静かに沈んでいった。
誰かへ渡すためでもなく。
誰かから受け取ったものでもなく。
ただ、
そこに託されるように。
そして。
少女の姿は、世界の奥へ消えていった。
⸻
長い年月が流れた。
後の時代。
人々は、少女の幻子と神との繋がりを――
「ディバイン」
と呼ぶようになった。
それは、力ではない。
祝福でもない。
ただ、あまりにも深く繋がったために、二つの感情を分けることができなくなった、
繋がり。
そして。
少女の中からこぼれた黒い粒を、人々は心の傾き――
「魔」
と呼び、その塵を
「魔塵」
と呼んだ。
けれど。
その頃には、もう誰も知らなかった。
それが、何から滲み出したものなのか。
誰の心から滲み出したものなのか。
なぜ、一粒の涙だけが、世界のどこにも消えずに残ったのか。
誰も知らなかった。
⸻
光は、癒し。
闇は、絶望の中でなお、明日を望む者の傍にある。
その二つは、善と悪ではない。
ただ、世界の中に残り続ける。
人が迷うたび。
誰かを救おうとするたび。
何かを失いたくないと願うたび。
心は、揺れる。
神が導く。
感情が揺らす。
ディバインが繋ぐ。
けれど――
最後に選ぶのは、
神ではない。
世界でもない。
誰かでもない。
選ぶのは、
いつだって、
幻子自身。
そして。
その奥底で、
何が息づいているのかを知っているのも、
ほかならぬ――
それが。
世界最初の約束だった。

tadashi
第二章 王国事変
静寂を破ったのは、敵の進軍ではなかった。
王城の奥深く。一人の男が、自らの剣を見つめていた。
王。
その手に握られた剣は、長く王国を守ってきたものだった。幾度もの戦場を越え、幾度もの別れを見送り、十年に及ぶ戦争の中で振るわれてきた剣。
その刃が、今。ゆっくりと持ち上がった。
向けられた先にいたのは、アレクシスだった。
「父上……?」
返事はない。
王の瞳は、目の前の我が子を見ているようで、見ていなかった。
剣が振り下ろされる。
アレクシスは、その場に立っていた。
刃が届くより先に、王の手が止まった。
わずかに、瞳が揺れる。
自らの手を。 自らの剣を。 そして、その先にいる我が子を。
ようやく認識したかのように。
剣が床へ落ちた。
乾いた音が、広い部屋に響いた。
王は何も語らなかった。弁明も、命令も、助けを求める言葉もない。ただ、落ちた剣を見つめていた。
やがて王は、自らの身柄を預けるために衛兵を呼んだ。
誰も、その背中に声をかけられなかった。
敗者の背中ではなかった。罪人の背中だった。
*
同じ夜。
王都にも、説明のつかない変化があった。
灯りのともる家々。店じまいをする商人。帰路を急ぐ人々。いつもと変わらない街並み。
けれど、どこかがおかしかった。
呼びかけられても、返事が遅れる。
知っているはずの名前が、すぐには出てこない。
いつも通る道で足を止め、何かを確かめるように振り返る。それでも、何を見たかったのか思い出せない。
誰も、それを異変とは呼ばなかった。ただ、何かが少しずつずれていた。
王城の奥で起きたことと、王都の人々に起きたこと。
その二つを結びつける者は、まだいなかった。
*
王のいない王城の朝は、静かすぎた。
エルグラディア帝国との戦争が始まってから、十年。
アレクシスが五歳のときに始まった戦争は、いまだ終わりを見せない。戦場では兵が倒れ、街では人々が暮らしを失い、国境の向こうからは、今日も帝国軍が迫っていた。
そして今、王国は王を失ったに等しかった。
誰も、その先を口にしなかった。口にしたところで、答えはなかったからだ。
会議室の机に、一通の提案書が置かれている。
王の病状を伝え、これ以上の流血を避けるために停戦を求める。それが一枚目。
宰相は、その紙に目を落とした。
軍務を預かる者。外交を担う者。数名の側近。
誰も、すぐには口を開かなかった。紙をめくる音だけが、卓の上を渡っていく。
「帝国が、この申し入れを受け入れる可能性は低いでしょう」
外交担当の指が、書面の端で止まっていた。
「承知しています。それでも、使者は出します」
アレクシスの返答は短かった。
和平が成るとは、誰も思っていない。ただ、王国が血を求めているのではないと、伝える必要があった。
異を唱える者はいなかった。
軍務を預かる者の視線が、地図へ落ちる。
「……帝国軍が進めば、前線は保てません」
「把握しています」
「追撃を受けます」
「後退させます。一度にではなく、順に。負傷者を先に」
言葉が途切れた。
地図の上には、いくつもの線が引かれている。
守るべき土地。 退くべき場所。 兵が通る道。
そのどれにも、人がいた。
宰相が、顔を上げた。
「……追わせるのですね」
アレクシスは、すぐには答えなかった。
「追ってきます。こちらが望む場所まで」
それだけだった。
誰も、その先を尋ねなかった。
アレクシスも、それ以上を語らなかった。
「装甲移動射撃班を、最後尾へ。退く部隊を守り、負傷者が離脱する時間を稼いでもらいます」
アレクシスの指が、地図の一角を押さえた。
軍務を預かる者は、しばらくその指先を見ていた。
「……やり抜けるなら、損耗は抑えられるでしょう」
「確実ではありません。ですが、何もしなければ、失うものが増えるだけです」
会議は、そこで終わった。
側近たちは、それぞれの仕事を抱えて席を立つ。扉が閉まるたび、足音が遠ざかっていく。
最後の一人が出ていくと、部屋には二人だけが残された。
机の上には、地図と提案書。
さっきまで人が囲んでいたそれらが、急に広く見えた。
宰相は、しばらく黙っていた。
自分の手を、見ていた。
やがて、顔を上げる。
「最後の役目は、私が引き受けます」
アレクシスの拳が、わずかに握りしめられた。
「駄目です」
短い拒絶だった。
宰相は目を伏せた。
「アレクシス様」
呼びかけただけで、続きが出てこない。
作戦を止めたいのではなかった。その価値は、誰よりも分かっている。
ただ、あの作戦の先にいるのが、この若き者であることだけが、許せなかった。
アレクシスは、すぐには答えなかった。
父の姿が、脳裏をよぎる。
あの剣。 あの瞳。 自らの手を見つめていた、背中。
そして、王都の人々。
何かがおかしい。
けれど、何が起きているのか、まだ分からない。
「……父上が、あのようになられた」
囁くような声だった。
「民も、おかしくなり始めています」
宰相が、息を止めた。
「それなのに、戦争は続いている。今も、人が死んでいる」
アレクシスは言葉を切った。
一度、息を吸う。
「戦争を続けている場合ではないのです」
強さを誇る響きはなかった。ただ、急がなければならないという、切迫だけがあった。
「だから、私が行きます」
自分が特別だからではない。 特別な力があるからでもない。
誰かが引き受けなければならない。
その責任を、他の誰かに押しつけることだけは、できなかった。
宰相は、目の前の若者を見つめていた。
王を失ったばかりの国。異変の続く民。十年の戦争。
そのすべてを、十五歳の肩に載せることになる。
宰相は、拳を開いた。
また、握った。
「……アレクシス様」
声が、わずかに掠れた。
それ以上、止める言葉は出てこなかった。
長い沈黙のあと、宰相は静かに頭を下げた。
納得ではなかった。
覚悟だった。
*
和平の使者は、王国を発った。
返答を待つ間にも、前線は削られていった。
やがて帝国から届いた返事は、拒絶だった。
進軍は続けられる。
それが、帝国の答えだった。
王国軍は、防衛線を下げた。
一つの陣地を離れ、次の場所へ。
傷ついた兵を運び、動けない者を支え、遅れた仲間を待つ。
退却の号令が繰り返される。
誰も、これを演習だとは思っていなかった。
彼らは本当に退いていた。
守るべき場所を失いながら。追いすがる敵を振り切りながら。
「担架を先に通せ!」
兵士の声が飛ぶ。
「まだ一人、後ろにいる!」
別の兵が振り返った。
矢が地面に突き刺さる。
遠くから、帝国軍の足音が近づいていた。
「置いていけるか!」
兵士たちは、負傷者を抱え直した。
前へ進むためではない。
生きて帰るために。
震える膝で、歯を食いしばる者がいた。
泣きながら、担架を担ぐ者がいた。
失われた仲間の名を呼ぶ者がいた。
返事はなかった。
それでも、歩みは止まらなかった。
王国軍の背中には、それぞれの故郷があった。
その背中を追う帝国軍には、違う景色が見えていた。
防衛線は下がり続けている。抵抗は弱まり、兵は散り、陣地は次々と放棄されていく。
指揮官たちは、それを王国の崩壊が近い確かな証と受け取った。
「……妙に統制された後退だな」
隊列の一角で、若い将校が呟いた。
耳に留めた者は、誰もいなかった。
追撃を緩める理由はない。このまま押し切れば、戦争は終わる。
そのとき、王国軍の後方に、重い車体が姿を現した。
左右には、車体を支え、進ませるための大きな獣。
分厚い装甲に覆われた、移動射撃の部隊。
その砲口が、追撃する帝国軍へ向けられる。
轟音。
地面が揺れ、土煙が上がった。
帝国軍の前進が、一瞬だけ止まる。
その隙に、負傷者を乗せた荷車が後方へ進んだ。遅れていた兵たちが、味方の列へ合流していく。
装甲移動射撃班は、敵を倒すためではなく、退く者たちを守るために撃ち続けた。
撃っては退き、退いては撃つ。
その繰り返しが、王国軍にわずかな時間を与えていた。
やがて、部隊もまた後退を始める。
守りながら退く。
一人でも多く、帰すために。
帝国軍は、その動きさえ苦し紛れと見た。
抵抗は続いている。だが、長くは持たない。
そう判断し、さらに奥へと進んでいった。
王国軍は退き続けた。
背後には敵がいる。
前方には、まだ帰るべき場所がある。
その間にある一本の道を、一歩ずつ。
帝国軍は、王国軍を追った。
王国が追い詰められていると、信じて。
彼らの目には、敗走にしか映らなかった。
その先に何があるのか。
なぜ、その場所へ向かうのか。
帝国軍は、まだ知らない。
ただ、進軍を続けた。
王国軍最後尾の旗が、静かに翻った。

浅葱ノア
執筆活動しながらアドバイス出来ればと思っております。
辛口コメント多いですが、より良い作品になれるよう切磋琢磨していきましょ( ` -´ )b

tadashi
## 第一章 目覚めの兆し
神々への信仰が薄れ、人々が己の欲望のままに生きるようになった時代。祈りの言葉は忘れられ、神殿には蜘蛛の巣が張り、かつて神聖とされた儀式は迷信として嘲笑われるようになっていた。
人々は気づいていなかった。それは、かつて封じられし”魔人”が、再び目を覚ますことを意味していたのだと。
-----
深い闇の底から、か細い声が響いてきた。
「……私を見つけて……助けて……」
それは懇願だった。長い間、誰にも聞かれることのなかった切実な叫び。
「あなたが犯した罪は……私を受け入れたこと――」
声は続いた。それは責めるような、しかしどこか悲しみを湛えた調子で。
闇の底から響く、か細くも切実な声。それは懇願か、呪いか。あるいは、未来への警鐘なのか。
すると、もうひとつの声が聞こえてきた。
「……ごめんなさい……あなたを苦しめたのは……あなたじゃない……私……」
今度の声は優しかった。まるで誰かの心に寄り添うように、静かに囁いていた。
「……自分を……責めないで……」
二つの声は闇の中で交わり、やがて静寂に飲み込まれていった。
-----
海の神のまなざしが弱まりつつあった頃。
深い森の奥、静寂と緑の影が重なるその場所で、一人の青年が目を覚ました。身体には無数の傷があり、意識は朧で、過去の記憶は霧に包まれていた。
何が起こったのか。自分は何者なのか。なぜここにいるのか。
青年の問いかけに答えるものは、森の静寂だけだった。
そんな彼の前に、一人の少女が立っていた。
少女は何も語らず、ただ青年を見つめていた。声を発することもなく、表情を変えることもなく。だが、その瞳には深い慈愛が宿っているようだった。
青年は重たい夢の名残を振り払うように頭を抱えた。夢の中で聞こえたあの声が、まだ耳の奥に残っていた。
「……ごめんなさい……」
少女の口は動いていない。けれど、その沈黙が夢の声とどこか重なる気がして、青年は心の奥に名もなき違和感を抱いた。
「君は……誰なんだ?」
青年の問いかけに、少女は首を横に振った。知らないという意味なのか、答えられないという意味なのか。
「僕は……僕は誰なんだろう」
今度は少女も困ったような表情を見せた。やはり答えは返ってこなかった。
何者でもない自分。何者かであったはずの自分。過去をなくした青年と、声をなくした少女。
ふたりの小さな旅が、今、静かに始まろうとしていた。
-----
その頃。
遥か彼方、世界の深奥で、長い眠りから目覚めようとする存在があった。
「……さぁ、我が魔の幻子たちよ……」
低く、重い声が闇に響いた。
「監視の目は、もはや届かぬ……目覚めの時だ……」
封印の力が弱まっていた。神々への信仰が薄れるにつれ、封印を支える力もまた失われていく。
「私を……解放せよ……」
忘れ去られた森の外で、かつての英雄が目を覚まそうとしていた。
だが、それはもはや英雄ではなく、神々の負の感情に支配された魔人だった。
世界は再び、大いなる災いを迎えようとしていた。そして、その鍵を握るのは、記憶を失った青年と沈黙の少女かもしれない。
二人はまだ知らない。自分たちがどれほど重要な存在であるかを。そして、どれほど大きな運命を背負っているかを。
森の静寂の中、新たな物語が静かに動き始めていた。

tadashi


カラー
【この惑星で楽しみたいこと】
これからお話がどうなっていくのか、期待しています。ギリシャ神話のようですね。
【最近のマイブーム】

reonaJN:
【この惑星で楽しみたいこと】
【最近のマイブーム】 幸(サチ)あらんことを…と祈る〜

ましゅ
【この惑星で楽しみたいこと】
キャラデザが好きなので、設定を活かしたいい一次創作が描けるように頑張ります〜!
【最近のマイブーム】

tadashi

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tadashi
第二章 王国事変
静寂を破ったのは、敵の進軍ではなかった。
王城の奥深く。一人の男が、自らの剣を見つめていた。
王。
その手に握られた剣は、長く王国を守ってきたものだった。幾度もの戦場を越え、幾度もの別れを見送り、十年に及ぶ戦争の中で振るわれてきた剣。
その刃が、今。ゆっくりと持ち上がった。
向けられた先にいたのは、アレクシスだった。
「父上……?」
返事はない。
王の瞳は、目の前の我が子を見ているようで、見ていなかった。
剣が振り下ろされる。
アレクシスは、その場に立っていた。
刃が届くより先に、王の手が止まった。
わずかに、瞳が揺れる。
自らの手を。 自らの剣を。 そして、その先にいる我が子を。
ようやく認識したかのように。
剣が床へ落ちた。
乾いた音が、広い部屋に響いた。
王は何も語らなかった。弁明も、命令も、助けを求める言葉もない。ただ、落ちた剣を見つめていた。
やがて王は、自らの身柄を預けるために衛兵を呼んだ。
誰も、その背中に声をかけられなかった。
敗者の背中ではなかった。罪人の背中だった。
*
同じ夜。
王都にも、説明のつかない変化があった。
灯りのともる家々。店じまいをする商人。帰路を急ぐ人々。いつもと変わらない街並み。
けれど、どこかがおかしかった。
呼びかけられても、返事が遅れる。
知っているはずの名前が、すぐには出てこない。
いつも通る道で足を止め、何かを確かめるように振り返る。それでも、何を見たかったのか思い出せない。
誰も、それを異変とは呼ばなかった。ただ、何かが少しずつずれていた。
王城の奥で起きたことと、王都の人々に起きたこと。
その二つを結びつける者は、まだいなかった。
*
王のいない王城の朝は、静かすぎた。
エルグラディア帝国との戦争が始まってから、十年。
アレクシスが五歳のときに始まった戦争は、いまだ終わりを見せない。戦場では兵が倒れ、街では人々が暮らしを失い、国境の向こうからは、今日も帝国軍が迫っていた。
そして今、王国は王を失ったに等しかった。
誰も、その先を口にしなかった。口にしたところで、答えはなかったからだ。
会議室の机に、一通の提案書が置かれている。
王の病状を伝え、これ以上の流血を避けるために停戦を求める。それが一枚目。
宰相は、その紙に目を落とした。
軍務を預かる者。外交を担う者。数名の側近。
誰も、すぐには口を開かなかった。紙をめくる音だけが、卓の上を渡っていく。
「帝国が、この申し入れを受け入れる可能性は低いでしょう」
外交担当の指が、書面の端で止まっていた。
「承知しています。それでも、使者は出します」
アレクシスの返答は短かった。
和平が成るとは、誰も思っていない。ただ、王国が血を求めているのではないと、伝える必要があった。
異を唱える者はいなかった。
軍務を預かる者の視線が、地図へ落ちる。
「……帝国軍が進めば、前線は保てません」
「把握しています」
「追撃を受けます」
「後退させます。一度にではなく、順に。負傷者を先に」
言葉が途切れた。
地図の上には、いくつもの線が引かれている。
守るべき土地。 退くべき場所。 兵が通る道。
そのどれにも、人がいた。
宰相が、顔を上げた。
「……追わせるのですね」
アレクシスは、すぐには答えなかった。
「追ってきます。こちらが望む場所まで」
それだけだった。
誰も、その先を尋ねなかった。
アレクシスも、それ以上を語らなかった。
「装甲移動射撃班を、最後尾へ。退く部隊を守り、負傷者が離脱する時間を稼いでもらいます」
アレクシスの指が、地図の一角を押さえた。
軍務を預かる者は、しばらくその指先を見ていた。
「……やり抜けるなら、損耗は抑えられるでしょう」
「確実ではありません。ですが、何もしなければ、失うものが増えるだけです」
会議は、そこで終わった。
側近たちは、それぞれの仕事を抱えて席を立つ。扉が閉まるたび、足音が遠ざかっていく。
最後の一人が出ていくと、部屋には二人だけが残された。
机の上には、地図と提案書。
さっきまで人が囲んでいたそれらが、急に広く見えた。
宰相は、しばらく黙っていた。
自分の手を、見ていた。
やがて、顔を上げる。
「最後の役目は、私が引き受けます」
アレクシスの拳が、わずかに握りしめられた。
「駄目です」
短い拒絶だった。
宰相は目を伏せた。
「アレクシス様」
呼びかけただけで、続きが出てこない。
作戦を止めたいのではなかった。その価値は、誰よりも分かっている。
ただ、あの作戦の先にいるのが、この若き者であることだけが、許せなかった。
アレクシスは、すぐには答えなかった。
父の姿が、脳裏をよぎる。
あの剣。 あの瞳。 自らの手を見つめていた、背中。
そして、王都の人々。
何かがおかしい。
けれど、何が起きているのか、まだ分からない。
「……父上が、あのようになられた」
囁くような声だった。
「民も、おかしくなり始めています」
宰相が、息を止めた。
「それなのに、戦争は続いている。今も、人が死んでいる」
アレクシスは言葉を切った。
一度、息を吸う。
「戦争を続けている場合ではないのです」
強さを誇る響きはなかった。ただ、急がなければならないという、切迫だけがあった。
「だから、私が行きます」
自分が特別だからではない。 特別な力があるからでもない。
誰かが引き受けなければならない。
その責任を、他の誰かに押しつけることだけは、できなかった。
宰相は、目の前の若者を見つめていた。
王を失ったばかりの国。異変の続く民。十年の戦争。
そのすべてを、十五歳の肩に載せることになる。
宰相は、拳を開いた。
また、握った。
「……アレクシス様」
声が、わずかに掠れた。
それ以上、止める言葉は出てこなかった。
長い沈黙のあと、宰相は静かに頭を下げた。
納得ではなかった。
覚悟だった。
*
和平の使者は、王国を発った。
返答を待つ間にも、前線は削られていった。
やがて帝国から届いた返事は、拒絶だった。
進軍は続けられる。
それが、帝国の答えだった。
王国軍は、防衛線を下げた。
一つの陣地を離れ、次の場所へ。
傷ついた兵を運び、動けない者を支え、遅れた仲間を待つ。
退却の号令が繰り返される。
誰も、これを演習だとは思っていなかった。
彼らは本当に退いていた。
守るべき場所を失いながら。追いすがる敵を振り切りながら。
「担架を先に通せ!」
兵士の声が飛ぶ。
「まだ一人、後ろにいる!」
別の兵が振り返った。
矢が地面に突き刺さる。
遠くから、帝国軍の足音が近づいていた。
「置いていけるか!」
兵士たちは、負傷者を抱え直した。
前へ進むためではない。
生きて帰るために。
震える膝で、歯を食いしばる者がいた。
泣きながら、担架を担ぐ者がいた。
失われた仲間の名を呼ぶ者がいた。
返事はなかった。
それでも、歩みは止まらなかった。
王国軍の背中には、それぞれの故郷があった。
その背中を追う帝国軍には、違う景色が見えていた。
防衛線は下がり続けている。抵抗は弱まり、兵は散り、陣地は次々と放棄されていく。
指揮官たちは、それを王国の崩壊が近い確かな証と受け取った。
「……妙に統制された後退だな」
隊列の一角で、若い将校が呟いた。
耳に留めた者は、誰もいなかった。
追撃を緩める理由はない。このまま押し切れば、戦争は終わる。
そのとき、王国軍の後方に、重い車体が姿を現した。
左右には、車体を支え、進ませるための大きな獣。
分厚い装甲に覆われた、移動射撃の部隊。
その砲口が、追撃する帝国軍へ向けられる。
轟音。
地面が揺れ、土煙が上がった。
帝国軍の前進が、一瞬だけ止まる。
その隙に、負傷者を乗せた荷車が後方へ進んだ。遅れていた兵たちが、味方の列へ合流していく。
装甲移動射撃班は、敵を倒すためではなく、退く者たちを守るために撃ち続けた。
撃っては退き、退いては撃つ。
その繰り返しが、王国軍にわずかな時間を与えていた。
やがて、部隊もまた後退を始める。
守りながら退く。
一人でも多く、帰すために。
帝国軍は、その動きさえ苦し紛れと見た。
抵抗は続いている。だが、長くは持たない。
そう判断し、さらに奥へと進んでいった。
王国軍は退き続けた。
背後には敵がいる。
前方には、まだ帰るべき場所がある。
その間にある一本の道を、一歩ずつ。
帝国軍は、王国軍を追った。
王国が追い詰められていると、信じて。
彼らの目には、敗走にしか映らなかった。
その先に何があるのか。
なぜ、その場所へ向かうのか。
帝国軍は、まだ知らない。
ただ、進軍を続けた。
王国軍最後尾の旗が、静かに翻った。

tadashi
第一章 森の中で
この世から神がいなくなって、どれだけの月日が流れたのだろう。
そもそも、人間はいつから「神」という言葉を忘れたのだろうか。
吹き抜ける風が、乾いた黄土の匂いを運んでくる。
草に埋もれた街道の脇には、刃の零れた錆びた剣。
かつて祈りが捧げられたであろう石の祭壇は、太い木の根に裂かれ、半ば土へと還っていた。
打ち捨てられた鉄くず。
風に舞う砂。
崩れた石垣。
そこにあるのは、息をひそめるような静寂だけだった。
†
ふっっふ。
暗がり。
耳には届かない。
肌の表面を、冷や汗のような気配が這う。
胸の底で、何かが囁いている。
怒れ。
妬め。
苛立て。
粘りつく吐息が、暗闇に満ちていく。
†
深い青の中だった。
水底なのか、夜の暗がりなのかも分からない。
冷たく、泥のようなものに身体が沈んでいる。
声が聞こえる。
遠いはずなのに、鼓膜のすぐ裏側で囁かれているようだった。
『あなたは、何も悪くない』
掠れた声。
泣いているようでもあり、すべてを諦めたようでもあった。
『すべては、わたしが犯した罪』
青い世界が、ゆっくり揺らぐ。
『だから――あなたはもう、自分を責めないで』
手を伸ばそうとした。
だが、指先という感覚がない。
声を出そうとしても、喉が動かない。
待ってくれ。
そう叫ぼうとした瞬間――
「う……っ」
青年は目を覚ました。
葉の隙間から差し込む太陽の光が、視界を焼く。
「……っ、ふ……」
頭の奥が割れるように痛んだ。
身体を起こそうとした瞬間、背中に激痛が走る。
呻き声を漏らし、草の上へ倒れ込んだ。
その背中に、柔らかな温もりが触れた。
少女の手だった。
小さな掌から、じんわりと温かさが広がっていく。
痛みが、少しずつ引いていった。
青年が横を見ると、少女は静かに首を横へ振った。
「……分かった」
青年が力を抜くと、少女は手を離した。
そして傍らの器を取り、青年の口元へ運ぶ。
澄んだ湧き水だった。
冷たい水が、乾ききった喉を潤していく。
「ありがとう……」
少女は答えない。
ただ、青年を見つめていた。
「ここは……?」
少女は困ったように眉を下げ、自分の喉へ指を当てる。
そして、首を横に振った。
「……喋れないのか」
少女は頷いた。
「そうか。無理に話さなくていい」
青年は自分の手を見つめた。
白く、傷のない指。
名前を思い出そうとする。
けれど――
何も浮かばない。
名前も。
過去も。
自分が何者なのかさえ。
「俺は……」
言葉が続かなかった。
底なしの空虚が、胸の奥に残っている。
少女は何も言わず、その隣に座っていた。
†
森の奥には、苔に覆われた古い祠の跡があった。
崩れた屋根の隙間から光が落ち、ひび割れた石段には青々とした苔が広がっている。
青年は、そこで数日を過ごした。
傷が痛めば眠る。
目覚めれば、少女がいる。
ただ、それだけだった。
けれど、いつからか。
目を覚ますと、まず少女の姿を探すようになっていた。
ある昼。
少女が、すり潰した薬草を器に入れて持ってきた。
嫌な匂いがする。
それでも、少女のまっすぐな視線に負けて、青年は口に含んだ。
「うっ……!」
強烈な苦さに顔を歪める。
涙目になった青年を見て、少女がほんの少しだけ肩をすくめた。
まるで、
――やっぱりね。
そう言っているようだった。
「……お前、今笑っただろ」
少女は答えない。
ただ、口元だけで笑った。
青年は、思わず吹き出した。
声を出して笑ったのは、目覚めてから初めてだった。
少女は少し驚いたように瞬きをし、それからまた笑った。
声のない笑いだった。
けれど、それはどんな言葉よりも確かに青年の胸へ届いた。
†
別の日。
湧き水を汲みに行こうとした青年が、濡れた苔に足を滑らせた。
身体が傾く。
その瞬間、横から手が伸びた。
少女が袖を掴んでいた。
「……ありがとう」
少女は手を離し、何事もなかったように歩き出す。
その背中を見ながら、青年は思った。
この少女は、いつもこうして誰かを支えているのだろうか。
迷うこともなく。
当たり前のように。
†
夜。
二人は崩れた祠の軒先に並んで座っていた。
少女は焚き火を見つめている。
青年は、その横顔を時折眺めていた。
言葉はない。
それでも。
冷たい水。
手のひらに乗せられた木の実。
薬草の苦さ。
そして、隣にいる少女の体温。
そんな小さなものが積み重なるたび、
青年の胸にあった冷たい空白が、少しずつ薄れていった。
†
ある朝。
青年の足から痛みが消えていた。
森の入り口まで歩く。
木々が途切れた先。
遠い地平線の近くに、薄く煙が立ち上っていた。
「……街か」
青年は呟いた。
後ろにいた少女も、煙を見つめている。
「俺は、あそこへ行ってみようと思う」
少女が青年を見る。
「自分が誰なのか、探さなきゃいけない」
少女は黙っていた。
そして、自分の胸に掌を当てる。
次に青年を指差し、
最後に、森の外へ続く道を指した。
「……一緒に来るか?」
少女は迷わず頷いた。
「危険なことがあるかもしれない」
それでも、少女はもう一度頷いた。
青年は、しばらく少女を見つめた。
「……分かった。一緒に行こう」
少女の頬が、わずかに緩む。
「俺は、俺を探す」
青年は街へ続く道を見た。
「君の帰る場所も、きっと見つけよう」
少女は小さく頷いた。
そして青年の隣へ、一歩踏み出した。
†
森の出口。
一歩、外へ出ようとした瞬間だった。
青年の足が止まった。
少女も同時に立ち止まる。
風が途切れた。
さっきまで鳴いていた鳥の声も、潮が引くように消えた。
「……っ」
青年は胸を押さえた。
遠く。
地平線の彼方。
そこから、何かが届いている。
音ではない。
光でもない。
ただ、空気の密度が変わっていた。
身体の奥にある何かが、その方角へ引かれている。
ふと横を見る。
少女の手が、青年の袖をぎゅっと掴んでいた。
少女もまた、同じ場所を見つめている。
青年は、その手に自分の手を重ねた。
温もりが、指先へ伝わってくる。
なぜ気になるのか。
分からない。
それでも。
あの方角へ行かなければならない。
そんな感覚だけが残った。
「行こう」
少女が頷く。
名前もない。
過去もない。
それでも二人は並んで、森の外へ続く道を歩き始めた。
†
まだだ。
誰かの迷い。
誰かの焦燥。
誰かの望み。
黒い煤が、静かに舞う。
ひとつ。
また、ひとつ。
擦れ合う。
想いが重なる。
揺らぎが満ちていく。
まだ――
終わってはいない。

tadashi
プロローグ 世界最初の約束
誰も知らない。
誰も観たこともない。
誰も聴いたこともない。
そんな世界が――
ただ、そこに在った。
天の上に、天があった。
地の下に、地があった。
その世界を、誰かが必要としていたわけではない。
誰かのために創られたわけでもない。
ただ――
創造神の『あそび』だった。
創造神は、その『あそび』を拡げるため、己の創造を三つに分けた。
天は、天の神へ。
空を広げるために。
海は、海の神へ。
空いた場所を満たすために。
大地は、大地の神へ。
そのすべてを受け止めるために。
それだけだった。
山が生まれた。
川が流れた。
森が広がった。
花が咲き、やがて枯れた。
神々は、それを眺めていた。
ときには形を変え。
ときには、何もしなかった。
世界は、遊びだった。
少なくとも――
その頃までは。
⸻
ある年。
雨が、降り続いた。
何日も。
何十日も。
大地は泥に沈み、麦は実らなかった。
村から食べ物が消えた。
子供たちは泣き、大人たちは空を見上げた。
その中に、一人の少女がいた。
少女の手には、わずかな食べ物があった。
少女自身も、空腹だった。
それでも――
少女は、それを隣に座っていた小さな子へ差し出した。
「さぁ」
子供は首を振った。
「お姉ちゃんは?」
少女は、少しだけ笑った。
「私は、大丈夫……」
自分が空腹であることを忘れたわけではなかった。
ただ。
目の前にいる子供のほうが、先だと思った。
それだけだった。
その言葉を、
聞いていた神はいなかった。
いや。
ただ一柱だけが、
見ていた。
⸻
天の神。
それが、本分だった。
世界を照らす。
空を見守る。
すべての民草を、等しく照らす。
ただ、それだけ。
けれど、その日から。
神の目は少しずつ変わった。
世界全体ではなく、
一人の少女を追うようになった。
少女が誰かへ食べ物を分ける。
泣いている子供を抱く。
倒れた者へ手を差し出す。
そして、助けられた者が笑う。
少女も、笑う。
そのたびに。
天の神の中に、名前のない何かが残った。
少女が笑うと、空まで明るくなったように感じた。
少女が悲しむと、空まで曇ったように感じた。
神は、その理由を知らなかった。
ただ、少女を見ていた。
今日も。
明日も。
その次の日も。
いつしか――
世界を見るより、少女を見る時間のほうが長くなっていた。
⸻
いつしか、神は民草へ幻子を授けた。
形のない可能性。
願いによって。
選択によって。
その姿を変えるもの。
その瞬間。
神の中にあった、名前のない何かが、少女の心とわずかに重なった。
一度。
そして、もう一度。
どちらが先だったのか。
どちらのものだったのか。
少女にも、神にも分からなかった。
ただ。
少女の胸の奥にあったものと、神の中にあったものが、少しずつ近づいていった。
それが――
最初の繋がりだった。
⸻
雨は、止まなかった。
少女は、それでも人々へ手を差し出した。
泣いている子供を抱いた。
食べ物を分けた。
倒れた者を起こした。
けれど。
一人を助ければ、
その隣で、また一人が倒れた。
「お願い……」
少女は、手を伸ばした。
けれど、その手を握る力さえ、もう残っていなかった。
やがて、その手が静かに落ちた。
少女は俯いた。
それでも、そこに座り続けることはしなかった。
立ち上がった。
そして、また歩いた。
誰かを助けるために。
少女には、それしかできなかった。
⸻
ある日。
誰かが少女の肩に触れた。
「もう休め」
少女は、その手を振り払った。
「まだ……」
振り返らない。
「まだ、できる」
それは、誰かに言った言葉なのか。
自分自身に言った言葉なのか。
少女には、分からなかった。
そのとき――
海が、動いた。
⸻
雨が降った。
けれど、それまでの雨とは違っていた。
冷たくない。
重くない。
ただ静かに、大地へ染み込んでいった。
川が満ちていく。
乾いていた場所へ、水が戻っていく。
畑に、潤いが戻る。
風が吹き、雲が流れ、空が少しずつ開いていく。
人々が顔を上げた。
泣いていた子供が泣き止んだ。
倒れていた者が身体を起こした。
「水だ……」
誰かが呟いた。
「水がある……」
やがて、人々の中から声が上がった。
「ありがとう……」
誰に向けた言葉なのか、分からなかった。
それでも、一人が手を合わせると、また一人が手を合わせた。
少女は、その光景を見ていた。
自分が一人ずつ救おうとしてきた人々。
その人々が今、同時に救われている。
少女は、何も言わなかった。
ただ、その光景を見つめていた。
⸻
天の神も、それを見ていた。
人々を。
大地を。
海を。
そして――
少女を。
その瞬間。
神の中で、何かが止まった。
少女は、目の前にいる一人へ手を伸ばしていた。
海は、そこにいるすべてへ、等しく施していた。
どちらも、誰かを救っている。
けれど、違っていた。
その光景を見て、天の神は初めて自分を見た。
世界を照らす。
それが、自分の本分だった。
なのに。
いつからだろう。
自分は、世界ではなく、一人の少女を見ていた。
少女が笑うと、自分まで満たされた。
少女が苦しむと、自分まで苦しくなった。
少女が誰かを救うと、まるで自分が救ったように感じていた。
違う。
それは、自分の本分ではない。
神の中に、初めて明確な痛みが生まれた。
私は、
世界を照らしていたのか。
それとも。
一人の少女だけを、見ていたのか。
答えは出なかった。
ただ、その問いだけが、
神の中に残った。
⸻
その瞬間。
少女の胸の奥でも、名前を持たない熱が形をとった。
それが自分のものなのか。
繋がりの向こうから届いたものなのか。
少女には分からなかった。
ただ。
少女は、それを拒まなかった。
天の神が感じたもの。
少女が感じたもの。
どちらが先だったのか。
もう、分からない。
二つの心が、同じ痛みを感じていた。
少女は、人々を見た。
笑っている者。
泣いている者。
助かった者。
助からなかった者。
そして、自分の小さな手を見た。
もっと。
もっと何かできれば。
もっと強ければ。
もっと救えれば。
その思いは、変わっていなかった。
けれど――
その善意は、少しずつ重くなっていた。
⸻
「足りない」
少女は、その思いを強く握った。
まだ、足りない。
もっと、できるはず。
世界を救うためなら。
何かを失っても。
何かを壊しても。
それでも。
少女は、手を伸ばした。
幻子の奥で、何かが混じった。
透明だったはずのものに、小さな濁りが生まれた。
少女は、それを恐れなかった。
それが何なのか、知らなかったから。
ただ、
これがあれば。
もっと救える。
そう思った。
幻子が、揺れた。
大きく。
深く。
そして――
少女の胸から、黒い粒が零れた。
ひとつ。
また、ひとつ。
やがて、数え切れないほどの黒い粒が空へ舞い上がった。
少女は、それを見つめていた。
怖かった。
けれど、逃げなかった。
自分の中から、何かが生まれた。
(※少女自身の誤認としての主観描写)
「……どうして」
誰にも届かない声だった。
黒い粒は、風に乗り、空へ昇り、世界の彼方へ散っていった。
⸻
天の神は、それを見ていた。
その光景を前にして、神は自分の本分を思い出した。
世界を照らす。
それが、自分の役目だった。
少女だけを見つめることではない。
神は、空を見上げた。
けれど。
少女との繋がりは、消えなかった。
むしろ、少女の心と深く重なっていた。
⸻
海は、満たすもの。
大地は、受け止めるもの。
天は、照らすもの。
三柱は、それぞれの本分へ戻っていった。
やがて海は、四柱の精霊神へと分かたれ、世界を見守るものとなった。
そして天は――
世界に、蓋をした。
閉じるためではない。
消すためでもない。
ただ、そこにあるものを覆うために。
少女の幻子からこぼれた黒い粒は、封じられた場所の奥へ落ちていった。
ひとつ。
また、ひとつ。
けれど――
消えなかった。
一粒も。
⸻
少女は、俯いていた。
自分が何を生んだのか。
それが何なのか。
まだ、名前さえなかった。
それでも。
少女は、もう一度だけ願った。
どうにかしたい。
自分が生み出してしまったものを。
自分が壊してしまったものを。
それでも。
少女の胸の奥で、何かが輝いた。
それは、神から与えられたものではなかった。
少女自身の幻子だった。
淡い光が身体から溢れ、黒い粒を照らした。
けれど――
消しはしなかった。
黒い粒も残った。
その光も残った。
少女は、それを見つめていた。
頬を、一筋の涙が伝った。
涙は、地面へ落ちなかった。
少女の幻子の奥へ、静かに沈んでいった。
誰かへ渡すためでもなく。
誰かから受け取ったものでもなく。
ただ、
そこに託されるように。
そして。
少女の姿は、世界の奥へ消えていった。
⸻
長い年月が流れた。
後の時代。
人々は、少女の幻子と神との繋がりを――
「ディバイン」
と呼ぶようになった。
それは、力ではない。
祝福でもない。
ただ、あまりにも深く繋がったために、二つの感情を分けることができなくなった、
繋がり。
そして。
少女の中からこぼれた黒い粒を、人々は心の傾き――
「魔」
と呼び、その塵を
「魔塵」
と呼んだ。
けれど。
その頃には、もう誰も知らなかった。
それが、何から滲み出したものなのか。
誰の心から滲み出したものなのか。
なぜ、一粒の涙だけが、世界のどこにも消えずに残ったのか。
誰も知らなかった。
⸻
光は、癒し。
闇は、絶望の中でなお、明日を望む者の傍にある。
その二つは、善と悪ではない。
ただ、世界の中に残り続ける。
人が迷うたび。
誰かを救おうとするたび。
何かを失いたくないと願うたび。
心は、揺れる。
神が導く。
感情が揺らす。
ディバインが繋ぐ。
けれど――
最後に選ぶのは、
神ではない。
世界でもない。
誰かでもない。
選ぶのは、
いつだって、
幻子自身。
そして。
その奥底で、
何が息づいているのかを知っているのも、
ほかならぬ――
それが。
世界最初の約束だった。

ましゅ
【この惑星で楽しみたいこと】
キャラデザが好きなので、設定を活かしたいい一次創作が描けるように頑張ります〜!
【最近のマイブーム】

reonaJN:
【この惑星で楽しみたいこと】
【最近のマイブーム】 幸(サチ)あらんことを…と祈る〜

tadashi
## 第一章 目覚めの兆し
神々への信仰が薄れ、人々が己の欲望のままに生きるようになった時代。祈りの言葉は忘れられ、神殿には蜘蛛の巣が張り、かつて神聖とされた儀式は迷信として嘲笑われるようになっていた。
人々は気づいていなかった。それは、かつて封じられし”魔人”が、再び目を覚ますことを意味していたのだと。
-----
深い闇の底から、か細い声が響いてきた。
「……私を見つけて……助けて……」
それは懇願だった。長い間、誰にも聞かれることのなかった切実な叫び。
「あなたが犯した罪は……私を受け入れたこと――」
声は続いた。それは責めるような、しかしどこか悲しみを湛えた調子で。
闇の底から響く、か細くも切実な声。それは懇願か、呪いか。あるいは、未来への警鐘なのか。
すると、もうひとつの声が聞こえてきた。
「……ごめんなさい……あなたを苦しめたのは……あなたじゃない……私……」
今度の声は優しかった。まるで誰かの心に寄り添うように、静かに囁いていた。
「……自分を……責めないで……」
二つの声は闇の中で交わり、やがて静寂に飲み込まれていった。
-----
海の神のまなざしが弱まりつつあった頃。
深い森の奥、静寂と緑の影が重なるその場所で、一人の青年が目を覚ました。身体には無数の傷があり、意識は朧で、過去の記憶は霧に包まれていた。
何が起こったのか。自分は何者なのか。なぜここにいるのか。
青年の問いかけに答えるものは、森の静寂だけだった。
そんな彼の前に、一人の少女が立っていた。
少女は何も語らず、ただ青年を見つめていた。声を発することもなく、表情を変えることもなく。だが、その瞳には深い慈愛が宿っているようだった。
青年は重たい夢の名残を振り払うように頭を抱えた。夢の中で聞こえたあの声が、まだ耳の奥に残っていた。
「……ごめんなさい……」
少女の口は動いていない。けれど、その沈黙が夢の声とどこか重なる気がして、青年は心の奥に名もなき違和感を抱いた。
「君は……誰なんだ?」
青年の問いかけに、少女は首を横に振った。知らないという意味なのか、答えられないという意味なのか。
「僕は……僕は誰なんだろう」
今度は少女も困ったような表情を見せた。やはり答えは返ってこなかった。
何者でもない自分。何者かであったはずの自分。過去をなくした青年と、声をなくした少女。
ふたりの小さな旅が、今、静かに始まろうとしていた。
-----
その頃。
遥か彼方、世界の深奥で、長い眠りから目覚めようとする存在があった。
「……さぁ、我が魔の幻子たちよ……」
低く、重い声が闇に響いた。
「監視の目は、もはや届かぬ……目覚めの時だ……」
封印の力が弱まっていた。神々への信仰が薄れるにつれ、封印を支える力もまた失われていく。
「私を……解放せよ……」
忘れ去られた森の外で、かつての英雄が目を覚まそうとしていた。
だが、それはもはや英雄ではなく、神々の負の感情に支配された魔人だった。
世界は再び、大いなる災いを迎えようとしていた。そして、その鍵を握るのは、記憶を失った青年と沈黙の少女かもしれない。
二人はまだ知らない。自分たちがどれほど重要な存在であるかを。そして、どれほど大きな運命を背負っているかを。
森の静寂の中、新たな物語が静かに動き始めていた。

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