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ゆー
#マイクラ #マインクラフト #マイクラ建築





猫真
陵墓とかないの?
#安楽伝

蘇我霊幻道師准尉
雨止みて 明治陵墓に 湯気が立つ
蒸し暑い 台風一過の 京の空



けん
みどりと平和のありがたみを感じられる場所でした



K.K
読了。いつも文献学ベースの本ばかり読んでいるのでとても新鮮。継体天皇の陵墓である今城塚古墳だけでなく、樟葉宮、筒城宮など王宮の伝承地付近の遺跡も含めて考察が重ねてある。つい先日弟国宮伝承地より当代の遺跡が見つかったことを踏まえて読みたい。
オススメ度★★★★★


えぬ
復元されてないとただの土の塊でどこが八角形なのかわからんけどな!!!

GG
学生時代、遺跡の発掘調査のアルバイトをしていたことは何度も書いている。その頃のガールフレンドは河内大塚山古墳のそばの住宅街に住んでいた。全国で第5位の規模の前方後円墳で、伝雄略天皇陵として宮内庁が管理している。でもその頃、僕は自由に墳丘の上を歩き回っていた。
(自国の歴史なのに)陵墓参考地の発掘調査を阻んでいる理由っていったい何なのだろう⁉️と考え込んでしまう。
週末、久々にキャンプに行こうと思ったのだが、急遽、歴史文化探究の三博物館巡りの日となった。
先ず、橿考研博物館「春季特別展・王陵桜井茶臼山古墳」。









ここち
侮辱されたことよりも玉氏の王を引き合いに出されて怒りが収まらない玉妍…朕に訴えても逆に反省を促され今は息子を皇帝にすることに望みを託す状況。陵墓への巡幸も同行は如懿だけ…朕と如懿は蜜月を満喫。事あるごとに一生 共に歩むよう約束をせがむ朕…でもそれって朕 次第だと思うわ

みたらし
弟橘比売さまのご陵墓。
その横にある
立派な切り株に惹かれる。
触りたい。
いや。
立ち入りしないでねって書いてあるし。
触っちゃ失礼だよな。。。
そんなことを考えながら、
にゃんこがそばを歩いている。
にゃんこも分かっているのかな?
立ち入りしないでねって区域には、
入らないにゃんこ。
いつもありがとうございます✨



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世界が崩れていく中で
ただひとつ静かに呼吸していた右脳文明だった
わたしは最近
古墳時代を世界史の流れと重ねて読むと
まったく違う景色が浮かぶことに気づいた
古墳は墓ではない
あれは国のかたちが立ち上がる瞬間の“象徴”だった
そしてその象徴が生まれた背景には
右脳文明としての日本と
世界崩壊の波から逃れてきた人々との混成があった
⸻
わたしが見た古墳時代
古墳時代の日本には
まだ文字も法律も貨幣もなかった
つまり左脳で社会を管理する仕組みがほぼ存在していない
だから社会は右脳で動いていた
空気を読む
場を整える
争いより調和
血縁と土地の気配
祭祀と儀式でつながる共同体
右脳の文明OSそのままの社会だった
⸻
大王は“支配者”ではなく調律者だった
教科書的な国家とは違う
大王は豪族同士を束ね
争いを吸収し
周波数を整えるための中心点
いまの天皇の役割に近い
祈りと象徴によって共同体をまとめる存在
権力というより“場のハブ”
その力が古墳という形になって残った
⸻
古墳はネットワークの可視化だった
巨大な陵墓は
・外交力
・同盟力
・調停能力
・共同体の共鳴の強さ
そのすべてを“形にして見せた装置”だった
文字の代わりに形で伝える
法律の代わりに象徴でつなぐ
まさに右脳文明の政治だった
⸻
そしてここからが本番
世界史と日本の同期があまりにも鮮やかだった
わたしが驚いたのは
巨大古墳のピークと
世界崩壊のピークが
ほぼ同じ時期だったということ
西暦260〜420年
ローマ帝国は崩れ
中国は三国時代から五胡十六国へ流れ込み
インドはクシャーナ朝崩壊で群雄割拠
どの文明も戦争と分裂の連続だった
その世界の大崩壊の裏で
日本だけが巨大古墳をつくり続けていた
なぜか
理由はひとつ
左脳文明が壊れるとき
右脳文明は安定するから
貨幣も
官僚制も
軍事国家もなかった日本は
世界の混乱の影響をほとんど受けなかった
⸻
そしてもうひとつ
わたしの直感に完全に一致した現象がある
北インドやユーラシア大陸の混乱から
大量の渡来人が東へ逃げてきた可能性が高い
彼らは
鉄器
馬具
装飾品
祭祀観念
神話の断片
政治の左脳的ノウハウ
そういう“文明のパーツ”を持ち込んだ
日本の右脳文明 × 渡来人の左脳技術
この掛け算が
巨大古墳という混成文明を生んだ
これは学界でも完全には書かれないけれど
歴史の流れで見れば自然すぎる構造だ
⸻
古墳時代とは
右脳文明の全盛期であり
左脳文明が芽を出す直前の
もっとも美しい境界線だった
自然と同期する社会
象徴でまとまる共同体
共鳴によって秩序が生まれる国
外敵がいない
資源が豊か
支配より調和
わたしがずっと語ってきた
「日本は右脳文明の最後の本拠地」
という世界観は
古墳時代を見ることで
さらに輪郭がはっきりした
⸻
古墳時代とは
右脳文明 × 渡来人の左脳技術 × 世界崩壊の同期
この三つが重なり合って生まれた
世界でも特異な文明の瞬間
支配ではなく調律
文字ではなく象徴
法律ではなく共鳴
武力ではなく場の力
日本という国の“核”が
ここで静かに形になった
わたしの右脳視点で読む古墳時代は
ただの歴史ではなく
文明の深層構造そのものだと思っている
empty
私はデジタルカメラでそれを撮影し、紙を外の王盟に渡した。もし金歯が戻ってきたら、直接返すように。私が故意にそれを横取りしたと思われたくない。
私の祖父は長沙の土夫子、つまり墓荒らしだった。祖父がこの行に入ったのは、全く不思議なことではない。現代風に言えば世襲だ。私の高祖父のさらに高祖父が13歳の那年、華中一帯で旱魃が起きた。あの時代、旱魃が起きれば飢饉になり、金があっても食べ物を買うことができなかった。当時、長沙の辺鄙な地域には何もなかったが、古墓だけは多かった。だから、山に寄れば山を食べ、墓に寄れば墓を食べる。村人総出で墓を掘り返した。あの数年、どれだけの人が餓死したかわからないが、彼らの村だけは一人も死ななかった。全て墓から掘り出した物を外国人と食料と交換していたおかげだ。
後になって時間が経つにつれ、これが一種の文化的な蓄積となった。私の祖父の代になると、すでに行規や流派の区別ができていた。歴史的に盗墓は南北二派に分かれる。土夫子は習慣で分けるなら、南派に属するべきだろう。主に土を探って古墓を探し、民国以前は探錐(たんすい)を使い、民国以後は洛陽鏟(らくようさん)を使った。鼻一つで深さや朝代を断定できた。今の多くの小説では、何かにつけて洛陽鏟と描写されているが、実は北派は洛陽鏟を使わない。彼らは陵墓の位置や構造の正確な判断に長けており、いわゆる「尋龍点穴」である。
南北派は文人墨客が分けた大派閥で、もともと江湖の世界とは関係がなかった。しかし、幾度もの乱世を経て、半端な者が多くなり、次第にこれらのものがこの業界に持ち込まれた。私の祖父は以前、自分自身に定義を下したことはなかった。後になって弟子たちが尋ねてきて、初めて自分のやり方はおそらく南派に属するのだと意識した。二派は確立以来、絶え間ない争いを続けた。南派は北派を、不実で小賢しく、墓を盗むのにそんなにたくさん名目を設け、中に入って物を取ったらさっさと出てくればいいのに、一叩き二叩きと官僚主義的だ、と言った。南派には規則が少なく、かつ死人を忌避することもなかった。北派の者は南派を土狗(どけん)と罵り、文物を台無しにし、盗んだ墓で崩壊しなかったものは一つもなく、死人まで引っ張り出して売ると言った。南派は北派を偽君子と罵り、明らかに賊のくせに何か特別なことのように振る舞うと言った。後になって、両派の者が墓を探す際、一つの墓を巡ってしばしば乱闘騒ぎにまで発展した。湘西地方では even 墓の中での死者を巡る争いも発生した。最後に両派はついに長江を境に分かれた。北派は「倒斗(ダオドウ)」(墓をひっくり返す)、南派は「淘沙(タオシャ)」(砂をあさる)または「淘土(タオトゥー)(土をあさる)と呼んだ。洛陽鏟は分かれた後に発明されたもので、北派は使おうともしなかった。
解放後になると、南北派の境界線はそれほど明確ではなくなった。私の祖父は自分を南派だと言っていたが、彼の仲間の古老たちの中には北派も少なくなかった。彼らの子供世代はさらにごちゃ混ぜで、これらのことを細かく追究する必要もない。
私の祖父は字が読めなかった。解放後、文盲撲滅クラスに入った時、彼はまだ砂をあさることしかできず、字を学ぶのはほとんど死ぬほど大変だった。彼が文化的な教養を得たおかげで、彼の経験のいくつかを記録することができた。長沙の鏢子嶺のあの三番目の兄貴、つまり私の祖父のこれらの出来事はすべて、彼が古びたノートに一字一字記録したものだ。私の祖母は教養人で、名家の令嬢だった。彼のこれらの話に惹かれて、最終的に祖父は杭州に婿入りし、ここに家を構えた。
あのノートは我が家の家伝の宝といえる。祖父の鼻はあの事件後、完全に駄目になってしまった。後来、彼は犬を訓練して土の匂いを嗅がせ、「狗王(ゴウワン)」というあだ名を送られた。これは実話で、今でも長沙で土夫子をしていた者、古老たちは皆知っている名前だ。
祖父がその後どうやって生き延びたのか、私の二伯父と曾祖父、さらにその上の曾祖父が最後どうなったのか、祖父は決して教えてくれなかった。私の記憶の中には、片目で片腕の二伯父の姿はない。おそらく本当に凶多吉少だったのだろう。このことに触れると、祖父はため息をつき、ただ「それは子供が聞く話じゃない」と言うだけだった。私たちがどんなに聞いても、どんなに甘えても、彼はひと言も漏らそうとしなかった。最後に、私たちが年齢を重ねるにつれ、子供時代の好奇心も次第に失われていった。
あまてらす
回答数 5>>
そもそも日本人が倭人伝の邪馬壱国を邪馬台国と読み間違えたんでしょ?てきとーーー😭
卑弥呼の神社•古墳もしくは陵墓が存在しないのもおかしいかと。🤔
そーなると卑弥呼も邪馬台国も存在しないと(現段階では)捉えるのが自然かな。
発掘調査が進んで『ワカタケル』と銘をきられた剣が見つかった雄略天皇みたいに、卑弥呼も何らかの証拠が見つかればこーいう論争はおさまるかな~🤔

またんぎ
記紀(『古事記』『日本書紀』)の記述と、後世の伝承・考古学を整理してみます。
⸻
1. 記紀における居住地
仲哀天皇との時代
• 仲哀天皇と神功皇后は 筑紫(福岡県東区・香椎宮付近) に行幸し、ここで天皇が崩御したと記されています。
• つまり 九州・香椎宮あたりに一時的に滞在・居住していたことは確かです。
天皇亡き後(摂政期)
• 神功皇后は、仲哀天皇崩御後に「大和」へ帰還し、政務を摂ったとされます。
• 『日本書紀』には、大和の橿原宮・難波の宮(大阪付近) などで政務を行った記録があります。
⸻
2. 主な伝承地
九州
• 香椎宮(福岡市東区) … 仲哀天皇崩御の地で、しばらく居住したとされる。
• 宇美八幡宮(福岡県糟屋郡宇美町) … 神功皇后が応神天皇を出産したと伝わる地。
• これらから、妊娠中~三韓征伐時は九州に生活拠点を置いていたと考えられる。
大和(奈良)
• 橿原周辺(奈良県橿原市・磯城郡あたり) … 大和政権の中心地。
• 広瀬・河内(大阪府) … 摂政として政務を行った地と伝わる。
⸻
3. 考古学的裏付け
• 奈良県・大阪府を中心とする古墳群 … 応神天皇以降の大王墓は大和・河内に集中。
• 神功皇后自身の陵墓は、宮内庁によって 奈良県奈良市山陵町の「狹城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)」 に治定されています。
⸻
4. 結論
神功皇后は次のように生活拠点を移したと考えられます。
1. 大和政権の皇后としては奈良(大和)を中心に生活
2. 仲哀天皇の遠征に随行し、九州・香椎宮(福岡市)に長期滞在
3. 仲哀天皇崩御後は、九州に拠点を置いて三韓征伐を指揮
4. その後、大和に帰り、摂政として政務を執った
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蘇我霊幻道師准尉
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あまてらす
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