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うすしお

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親のしがらみや、いろんな外部の障害にも

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来年も頑張ってください!陰ながら応援してます!

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マサヤス   龍之介

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岸辺🏝の100冊📖´- # 21

#読書の星


☆『年末の一日 / 芥川龍之介』
新潮文庫刊 『戯作三昧 一塊の土』
1976年(昭和51年)8月10日 13刷より

この本は昭和51年の発行である。奥付にそうあるので、私が小4か小5の時に駅前の書店で購入したものだろう。定価は¥180 いい時代だった。
このくらいの価格なら小学生でも容易に手に入れられる。今なら¥500 は下るまい。しかし、今どきの小学生も携帯電話なんぞ持ち歩いているので或いは、青空文庫で読書を済ませるのだろうか。だとすれば味も塩っ気もない話だ。青空文庫は便利には違いないが、ただ字を追うのみである。挿絵も無ければ表紙も無味乾燥。物としてのバリエーションに欠ける。従って想像力の欠如、イマジネーションが培われない。……年寄の戯言だ。
読書子には或いは、この装丁が懐かしい、と思われる方もおられるだろう。今の新潮文庫は完全に違う装丁になっているし、値段だって跳ね上がっていることだろう。
久しぶりに我が敬愛せる芥川龍之介の作品を紹介する。以前芥川龍之介の作品だけを紹介する戯文を連載したことがあるが、この愛すべき小品は抜けていた。
この小品は1926年(大正15年)一月号の『新潮』に初めて発表された。小説というより随筆に近い。今日の様な大晦日にうってつけだ。今から丁度100年前の芥川の年末の一日に起こった小事が書かれている。
『僕』は雑木の生えた、寂しい崖の上を歩いて行った。崖の下はすぐに沼になっていた。その又沼の岸寄りに水鳥が二羽泳いでいた。どちらも薄い苔の生えた石の色に近い水鳥だった。『僕』は格別その水鳥に珍しい感じは持たなかった。が、余り翼が鮮やかに見えるのは不気味だった……そんな夢から起きた『僕』だった。それは、がたがたと云う音が響いていたからであり、その音が年末の大掃除で、妻や伯母のフキが座敷の縁側でせっせと硝子戸を磨いている音だと分かったのは、後架へ小便をしに行った帰りしなにその大掃除の光景を見たからだ。伯母からは「お前、もう十二時ですよ」と言われたが、『僕』は三つの雑誌社から新年号の小説の依頼をけ受けて最後の仕事が終わったのは夜明け前のことだった。芥川の精神疾患については統合失調症であるが、現代ではそういった精神疾患についても普遍化していて、一般的にも可也認知度は広まってきているが、大正末期のこの頃に江戸時代に生まれた芥川の伯母フキにそこは理解してやらないと…と云うのは酷な事なのかもしれない。が、仕事に追われる芥川は田端の自宅では煩い伯母やまだ幼かった3人の子供達がいる以上、静かに小説など書ける環境ではなくこの頃の芥川の夥しい写真は大抵今で云うシティホテルのソファで寛ぐ姿が多いのはそのせいである。芥川はこの文章の中でこう書いている。「朝飯兼昼飯をすませた後、僕は書斎の置き炬燵(こたつ)へはいり、二三種の新聞を読みはじめた。新聞の記事は諸会社のボオナスや羽子板の売れ行きで持ち切っていた。けれども僕の心もちは少しも陽気にはならなかった。僕は仕事をすませる度に妙に弱るのを常としていた。それは房後の疲労※のようにどうすることも出来ないものだった。……」この頃の芥川は統合失調症の諸症状に
頻繁に苛まされ斎藤茂吉のいる青山脳病院へ通院していたが、一向に改善されず悩んでいた。そして芥川が1927年の7月に服毒自殺をとげた最大の要因はこの精神疾患からくる自殺願望の果てによるもの、とされている。そういった背景を頭に入れて読まないとこの時代の芥川の文章は理解し難いと思う。
お昼頃めざめた芥川が朝飯兼昼飯をとった後の二時頃、K君が来訪する。と或る新聞記者でありK君は社用の次いでにちょいと寄った、と言った風だった。「どうです?お暇なら一緒に出掛けませんか」。切り出したのは芥川の方だった。「どこかお出になる先はおきまりになっているのですか?」「いいえ、どこでも好いんです」「お墓は今日は駄目でしょうか?」K君のお墓と言ったのは夏目先生のお墓だった。K君は半年前に芥川と約束した夏目漱石の墓に案内してもらう、という意味だと芥川はここで漸く気付いたのだった。年末にお墓参りをする……芥川自身にぴったりしないものを感じつつ、でも芥川は「じゃあ、お墓へ行きましょう」と安請合いしてしまう。この辺の芥川の気風のよさがいかにも都会人気質でよい。
夏目漱石のお墓は雑司ヶ谷霊園にある。芥川の自宅から一番近い本郷動坂の電停へK君と連れ立った。
「天気は寒いなりに晴れ上がっていた。狭苦しい動坂の往来もふだんよりは人あしが多いらしかった。門に立てる松や竹も田端青年団詰め所と言う板葺きの小屋の側に寄せかけてあった。僕はこういう町を見た時、幾分か僕の少年時代に抱いた師走の心もちのよみ返るのを感じた。」
こういう芥川の文章表現はタイトル通りの読者の期待感を一定量満たすものである。『年末の一日』と言う以上、そこに師走の町の様子が描かれ作者がどういう感慨を抱いたか、を明文化してくれて読者のカタルシスは満たされるからだ。
やがて、護国寺行き路面電車が到着し二人で由無しごとなどを話していた。電車が富士前を通り越した頃、突然電車の中ほどの電球がひとつ、偶然抜け落ちて床で粉々になるハプニングが起こった。「そこには顔も身なりも悪い二十四五の女が一人、片手に大きい包を持ち、片手に吊り革につかまっていた。電球は床へ落ちる途端に彼女の前髪をかすめたらしかった。彼女は妙な顔をしたなり、電車の中の人々を眺めまわした。それは人々の同情を、-ーー少なくとも人々の注意だけは惹こうとする顔に違いなかった。が、誰も言い合わせたように全然彼女には冷淡だった。僕はK君と話しながら、何か拍子抜けのした彼女の顔に可笑しさよりも寧ろはかなさを感じた。」
一見すると芥川のこの女性への眼差しは冷たいように感じるが、最後に女の儚さを感じ入る辺りは人一倍女性にやさしかった都会っ子芥川の面目躍如であろう。
芥川の短編の傑作と言われている『蜜柑』にも似た様な表現があった。横須賀線のボックスシートにたまたま乗り合わせた歳わも行かない少女に対し、散々蔑んだ表現で表した最後の最後で車窓から見送りに来た弟達に対して蜜柑を投げつけた瞬間を切り取り、その神々しいまでの表現で賞賛した。これは芥川固有の表現である。同時に芥川の女性観をよく表しているともいえる。
この後、芥川達は無事に雑司ヶ谷霊園に到着するのだが、案内役だった芥川はあろうことか、不覚にも漱石の墓への道をど忘れしており、小路を行きつ戻りつオロオロしてしまう。幾ら行っても一向に漱石の墓に辿り着かない。最後は施設清掃の女性に聞く有様であった。墓に着くと漱石ファンだというK君はわざわざ外套を脱ぎ、丁寧におじぎをしたが、芥川自身は今更恬然(てんぜん)とおじぎする気にはなれない、というのだ。漱石亡きあと9年が流れた。漱石は芥川文壇にデビューするきっかけを与えてくれた恩師であるはずだが、今の芥川にはそんな感慨に耽るほどの余裕は無かったのだ。これも精神疾患のせいだろう。
やがて、2人はもと来た電車で戻ったが芥川だけ富士前の電停で降りた。東洋文庫にいる石田幹之介に会い、再び動坂に着いた。往来は先程よりも一層混雑していた。「が、庚申堂を通り過ぎると
人通りもだんだん減りはじめた。僕は受け身になりきったまま、爪先ばかり見るように風立った路を歩いていった。すると墓地裏の八幡坂の下に箱車を引いた男が一人、梶棒に手を掛けて休んでいた。箱車はちょっと眺めたところ、肉屋の車に近いものだった。が、側へ寄って見ると、横に広いあと口に東京胞衣(えな)会社※2と書いたものだった。僕は後ろから声を掛けた後、ぐんぐんその車を押してやった。それは多少押してやるのに穢(きたな)い気もしたのに違いなかった。しかし力を出すだけでも助かる気もしたのに違いなかった。
北風は長い坂の上から時々まっ直ぐに吹き下ろして来た。墓地の樹木もその度にさあっと葉の落ちた梢を鳴らした。僕はこう言う薄暗がりの中に妙な興奮を感じながら、まるで僕自身と闘うように一心に箱車を押しつづけて行った。……」
この頃の芥川は、周辺の人々にしきりに自殺を仄めかしたりしていたという。それくらい彼の厭世観はふくれていて、最早それは自分でもおよそコントロール出来ないところまに達していたという。しかし、これを読む限りは、この最後の情景はなんと生気に満ちていることだろう。しかももう自殺願望に漲っていたとされるこの時期に。
これはその死の7ヶ月前に発表された。それでも生きようとしている芥川に私は目頭が熱くなるのを抑え切れなかった。
芥川研究の第一人者だった吉田精一がこの文庫本の解説を書いているが、吉田は、この作品は作者が苦心もし、愛着もあった作品であると書かれている。芥川は箱車のあと口に『東京胞衣会社』
の数文字を書くまで、いく度その一行を書きかえたか知れなかったということである。と解説している。




※ 男女の交合のあと の意味。
※2 出産のとき排泄される胎児を包んでいた膜や胎盤の処理をした会社。


本年も私の様々な雑文をご拝読くださって且ついいね👍をくださった方々に深く御礼を申し上げます。
どうぞ、良いお年をお迎えくださいm(_ _)m
そして、来年も引き続きご厚誼のほどを宜しくお願い申し上げます。
2025(令和7年)年12月31日
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