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昭和懐古録 341

#グラビティ昭和部

・昭和10年(1935年)

☆『初代女アナウンサー、翠川秋子心中事件』

8月6日四谷区新宿の元アナウンサー翠川秋子
こと荻野千代女史（43)は七月二十五日和服姿で
飄然と家出したまたまかへらないのでこの日
家人から響視庁に捜査方を願ひ出た。荻野女史
は東京女子美術学校を卒業して十数年前京橋
貯蓄銀行支店に勤めてゐた夫秀雄氏に死別した
後、蕨のダンスホール・シャンクレールにダン
サーをしてゐる長女美代子（24)丸の内某会社に
勤めてゐる長男敏雄（22)日本郵船平安丸に乗組
んでゐる次男輝雄（20)の三児と亡夫の母とを
抱へて女の細腕一つで育てあげてきた典型的な
気丈な母でまた文学女性でもあつた。日本最初
の女アナウンサーとして愛宕山に名を馳せての
ち成女高女の図画の教諭、白木屋の機関雑誌編
集勤めるかたわら原稿稼ぎをしたり、屋台のお
でん屋をやつてみたり彼女の子供ゆゑの悪戦苦
闘は想像以上であった。最近はこの奮闘が漸く
酬いられて子供たちはそれの道に自活出来るよ
うになり、自分も日本観光協会嘱託として長い
生活の不安はぬぐはれた。先月二十五日家を出
たときは次男輝雄君は不在で長女美代子さんと
長男敏雄君だけが家にみたが身体の具合が少し
悪いといつてゐたし、時々ブラリと旅行するの
で静養に出かけるのだと思つて気にもとめずに
ゐた。ところへ数日前平安丸に乗つてゐる輝雄
君にあて~母からの手紙がきた。その手紙には兄
妹三人の将来を戒める母としての情味あふれる
言葉が綴られてあり「亡きお父さんへの責任を
果したが、・・・妾は疲れた」と厭世的な字句
があつたのでいぶかしく思つて下船と同時に帰
宅して、兄たちに話してをかしいといふので、
中を探してゐると、女史の幼少からの全生涯を
日記式にしたためた回顧録風の原稿に添へて家
出自殺の意味の遺書が発見されたので驚いて捜
索願を出したものである。
遺曹
子供たちはもう大きくなつたから私も安心だ。生活に疲れた私は死の家出をする。死体は絶対に判らないやうにするから探すのは無駄だ。海の底から子供たちの幸福を永遠に祈つてゐる。私の家出した日を命日としておくれ。（読売）
8月20日翠川秋子女史、千葉県西崎村の海岸で
死体となって発見。検視の結果、溺死は間違い
なく入水は午前二時頃と推定。北条署の調べに
よると、翠川女史は愛人藤懸羊次君（29)と北条
海岸山中旅館に宿泊した後、両人は前日午後三
時十分頃、北条海岸からボートを漕ぎ出し約
十一時間海上をさまよった後、海に飛び込み心
中を図ったものとみられる。羊次君の死体は海
岸一帯にわたって捜査されたが何の手がかりも
なく、漁師たちの話によると潮流の関係で湾外
に流されたものらしい。
羊次君は中央大学法科卒業、昨年十二月蒲田区
役所に勤務。在学中はラグビーの選手でキャプ
テンを四年も務めるスポーツマンだった。同君
は大学卒業後、大阪ヘラグビーの試合に行った
帰途の車中で翠川女史と知り合い、その後女史
が新宿におでん屋を開いてから同家へしばしぱ
出入りし二人の恋は急速に進展し、ついに今回
の死の逃避行となった。
羊次君から遺書を受け取って現場にかけつけた
父重次氏は、「羊次は七月二十五日朝海水浴に
行くと言って着換へを一枚持って出かけた儘今
日まで消息がなかつたが、今朝突然館山局の消
印で『どうにもならない事情で死ぬから』とい
ふ遺書が届いたので吃驚して駈付けて来た。翠
川女史とは先年大阪から帰る車中知合ひとなり
おでん屋を開業してからも時々行つたやうです
が、之れ以上の交渉は父親の僕も一寸も知らな
かつた。羊次は普段は朗らかな子でしたが本年
二月頃から多少神経衰弱気味でふさいでまし
た。若し翠川さんと情死したとすれば女の方か
ら引摺られたのでせう」（時事新報）と語っ
た。

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