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そいつは人間じゃない


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大谷翔平がどれほど評価されているかを、
私たちはよく知っている。
満票MVP、歴史的な成績、年俸、
世界的な注目。
まさに前人未到と呼ばれる存在だ。
ここで一つ、疑問が浮かぶ。
前人未到のものを、
人は本当に評価できるのだろうか。
彼と同じ手触りで、
同じ密度で現実に触れられる人は、
果たしているだろうか。
おそらく、
大谷翔平に与えられている評価とは、
彼を測った結果ではない。
彼が、評価という枠の外にいるという事実に貼られた名前なのだ。
一方で、ピカソもまた、
評価という言葉と強く結びついた人物だ。
美術史に名を刻み、
作品は天文学的な価格で取引され、
「天才」という言葉の代名詞のように
扱われている。
絵に詳しくない人でも、
彼の絵を一度は目にしたことがあるだろう。
しかし、私は彼の絵を見て
「たしかに、20世紀最大の画家だ」と
確信したことはない。
正直に言えば、
そんなことは分からない。
私にできるのは、
この線が好きかどうか、
この歪みが心地いいかどうか、
この色づかいに何かを思い出すかどうか、
それだけだ。
「20世紀最大」という評価は、
私の生活の中では、
絵を見る手触りを一切変えない。
彼らのような、突出した人間でさえ、
その評価が本当に妥当なのかは、
誰にも分からない。
では、私たちはどうだろうか。
おそらく、もっと曖昧だ。
私たちの仕事や生活は、
スポーツの成績のように
明確な数値にはなりにくい。
勝敗があり、記録が残り、
比較できるものばかりではない。
また、私たちの生活は、
美術史のように
後世から一望されるものでもない。
流れを俯瞰できる視点も、
時代を代表する文脈も、
多くの場合、持たないまま進んでいく。
にもかかわらず、
私たちは日々の選択や振る舞いを、
評価という言葉で測ろうとする。
それは本当に、
現実を円滑にしているのだろうか。
だが、
人は無意識のうちに世間の評価を信じている。
実際に会ったことも、話したこともない
有名人の周囲に人が集まり、
その場にいるだけで、
何かを理解したような気になる。
評価は、
自分で確かめる手間を省いてくれるからだ。
そしてふと、
私たちは気づく。
自分自身もまた、
あらゆるものを暫定的に
評価しながら生きている、ということに。
この人は口下手だが誠実だ。
この人は要領がいいが浅い。
この人は不器用だが信頼できる。
評価はいつも、
「しかし」「だが」を伴って現れる。
それは本来、
理解の途中で置かれる仮の印のはずだった。
評価が入った瞬間、
人はいつのまにか、
自分が感じていることよりも、
評価のほうが正しいと信じてしまう。
胸がざわついた理由や、
よく分からない引っかかりは脇に置かれ、
「そういうものだ」という理解が、先に立つ。
そのとき現実は、
手触りや匂いを失い、
すでに分かったものとして処理される。
「ああ、ピカソの絵ね」
「キュビスムっていうんだよね、たしか」
言葉は増えているのに、
感じている量は、むしろ減っている。
評価は、
世界を理解するための入口だったはずなのに、
いつのまにか
感じることを終わらせる合図になってしまう。
評価とは、そもそも何のためにあったのか。
それは本来、現実を知るためにあったはずだ。
美術史の流れを知ることは、
それだけで作品を理解したことにはならない。
しかしそれは、
自分がこれまで注目してこなかった線や構図、
時代ごとの問題意識へと、
視線を向け直すきっかけを与えてくれる。
評価は、
感じることの代わりをするものではない。
感じるための入口として、
あとから添えられる補助線のようなものだった。
現実は、本来
「判断してから動く」ものではない。
感じて、少し調整して、また動く。
それを繰り返して進んでいく。
人は、評価がなくても関われる。
むしろ、評価が入らないほうが、
関係はよく動くことが多い。
相手がどういう人かを決めなくても、
今この瞬間のやり取りの中で、
距離を近づけたり、
離したりすることはできる。
うまくいかなければ、
その都度、調整すればいい。
私たちの生活は、
正しいかどうかの判断よりも、
合っているかどうかの調整によって成り立っている。
評価は、その調整が終わったあとに、
振り返りとして置かれるものだ。
現実を動かす力は、
最初からそこにはない。

コーユー
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