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二重否定くん

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うーん流罪
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くら

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あのフォロワー、隠岐に流罪か
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まえさん

まえさん

朝、急いで咥えたパン🍞がぶつかった相手に刺さって過失致死罪になりました。朝、急いで咥えたパン🍞がぶつかった相手に刺さって過失致死罪になりました。

回答数 90>>

せめて罪一等を減じて流罪にしてください
蛇足ながら麺包(パン)が刺さった位で死ぬ相手は人間ではないと思われますが?
大喜利のお題の星大喜利のお題の星
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🍬☂️

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やばいよ本当 ラブラブに なるぞ(目標)
いや、めっちゃ振ってもらってもいい 許されないよ 流罪
市彦、シュルス あなたたちに言っています
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りー

りー

今さー流罪になった家族の話を書いてるんよ

展開が面白くて自分でもワクワクしてるのよ

這いつくばって生を勝ち取る

みんなはどんな生き方してるの?
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ワンワ

ワンワ

和気清麻呂が道鏡事件で別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名されたの知って本人的には流罪にされたりで大変だったんだろうけど嫌がらせが小学生っぽくて笑ってしまった
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★イサ

★イサ

何度見ても瀬央さんガイだけ殺られるの納得いかんし可哀想すぎ
別にガイが個人的に怨みで
陥れたわけじゃないし
黒幕達が本当に悪いわけで

エンディングの大団円に
黒幕達居ないのが救い
きっと流罪か幽閉かになった
と信じてる
#瀬央ゆりあ
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留吉

留吉

今や観光地リゾート地も
昔は処刑の島   祟りなんだろうなぁ

大島・八丈島・三宅島・新島・神津島・御蔵島・利島の七島がすべて流罪地だったが、大島は本土に近くて島抜げする者が相次いだり、その他の小さな島では生活環境が悪く、流人を受け入れる余裕がないなどの理由により、大島など四島が除かれ、後には八丈、三宅、新島の三島が流刑地となった。
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🌴たかし⛺

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とりとめのない話し(その63)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その23番外編)

多くの「近江商人」が信仰している「浄土真宗」は、聖徳太子、七高僧、法然、親鸞の絵像が祀られている。「浄土真宗」の開祖である親鸞の夢に出たとされ、聖徳太子が強く信仰されている。

1つ前の投稿で紹介した事件「承元の法難」で、法然の弟子たちが陰茎を切り落とされたように、過去にも生臭坊主は多かった。当時、僧侶がそういう行為をすることを「女犯」とされ、戒律違反で破門とされていた。ましてや人の女房を寝取ることは死罪も同様だ。親鸞も同様の葛藤があり、危うく難を逃れた気分だったかもしれない。過去には、どちらかというと、人よりも欲が強すぎて、欲を捨てるために僧侶になろうという動機で出家することも数多くあったのだろう。最近99歳で亡くなられた瀬戸内寂聴も性欲を捨てきれず、出家して、地位を得ている。織田無道もキャバクラ通いで、有名だった。

僧侶の結婚が正式に認められたは、1872年の明治維新以降である。

親鸞も性欲を捨てきれず、聖徳太子ゆかりの寺院を回ったり、浄土宗の法然に教えを乞うなど、かなり性欲に悩んでいた。子だくさんの聖徳太子が強く信仰され、庶民から深く信仰されていることに矛盾を常に感じ、羨ましかったのかもしれない。性欲を捨てなくて良い理由を聖徳太子の夢のお告げと吹聴してまわり、性欲を捨てずに布教活動しようと開き直った最初の僧侶である。

俗世間には受け、信者を着々と増やしていったイケイケな親鸞の「浄土真宗」は、前途多難な道を歩むことになる。

鎌倉時代、奈良県(大和)の興福寺は、専修念仏を称えた「浄土宗」の法然や師と仰いだ親鸞とその弟子を訴え、後白河上皇に流罪とされ、地方を転々とすることとなった。

室町時代、浄土真宗の中興の祖と言われる蓮如の頃には、比叡山延暦寺に仏敵とみなされ、大谷本願寺が破壊された。

戦国時代、「浄土真宗」も抵抗勢力の大名や寺院に対抗すべく、大坂の石山本願寺で寺領を形成・武装していた。そして、守護大名らと呼応し、織田信長との石山合戦に突入していく。

●親鸞聖人の夢告
親鸞聖人が比叡山での修行に行き詰まりを感じていた際、京都の六角堂(頂法寺)に百日間参籠し、その95日目の夜明けに夢告を受けた。 

夢告の内容 
夢告は、六角堂の本尊である救世観音(如意輪観音)の化身とされる聖徳太子から受けたもの。 
「行者宿報設女犯、我成玉女身被犯、一生之間能荘厳、臨終引導生極楽。」 
「もし修行者が前世からの宿縁によって妻帯(女犯)しなければならない境遇にあるならば、私が玉女(美しい女性)となってその妻となり、一生の間、伴侶としてあなたを支え、臨終には極楽へ導きましょう。」

夢告の意義 
この夢告は、当時の厳しい戒律(特に僧侶の妻帯・肉食の禁止)に悩んでいた親鸞聖人に対し、俗世での生活(妻帯)を肯定し、それでも念仏によって救われるという道を示唆したもの。 

●妻帯の自由化
長年に渡り日本では法律で禁止されている状況が続いたが、明治維新にあたって、国家神道政策の影響もあり、1872年(明治5年)に太政官布告133号が発布されて僧尼令は廃止され、僧侶の肉食妻帯はこの布告をもって自由であるとされた。当時既に浄土真宗以外にも妻帯していた僧は多数存在したといわれるが、これに対しては戒律復興運動などの反対も起こった。

●延命院事件
江戸時代の享和年間に「延命院事件」と呼ばれる江戸中を騒がせる大事件が起こった。
この事件は延命院住職であった日潤の女犯事件であり、相手に大奥の女中が含まれていたため、大奥を巻き込んだスキャンダルとなり、江戸を揺るがせることとなった。日潤は初代尾上菊五郎の子供であったと書かれている本もあり、大変男前であり、話も上手だったと言われている。そのため、女性の信者に大変人気があり、大勢の女性信者が延命院に参詣するようになった。
こうした情報を得た寺社奉行脇坂安董は、取締りを決意するが、大奥も関係していることから安易に動くわけにはいかず、家臣の娘を密偵として延命院に送り込み確かな証拠をつかんでから摘発をした。享和3年(1803年)7月29日に日潤は斬罪となり、関係のあった婦女子などもそれぞれ処罰された。
延命院事件は『観延政命談』として脚色されて小説化されたのち、河竹黙阿弥によって歌舞伎として『日月星享和政談』と題し、明治11年(1878年)東京・新富座で5代目尾上菊五郎の主演で初演された。日潤は歌舞伎では日当となっているため通称「延命院日当」と呼ばれる。
延命院事件に先立つ寛政8年(1796年)8月には吉原遊郭の周囲に検問所を設け、朝帰りの僧侶69人(17歳から60歳)を一斉逮捕し、三日晒の上に寺持ちは遠島、所化は寺から追放という厳しい処分となった。
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とりとめのない話し(その62)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その22番外編)

「近江商人」は「浄土真宗」を信仰している人々が多いのが特徴的である。明治維新以降、商業の中心地が大坂に移ると御堂筋の北御堂と南御堂のある船場に「近江商人」が集まり、繊維問屋街と発展していった。

「天台宗」は修行により開け、「浄土宗」は専修念仏により開かれるとされたが、その念仏により現代にも類似するような面白い事件が1207年の鎌倉時代にも起きていた。僧侶の美声や僧侶の抑揚のある聞こえの良い曲節により女房を寝取られたと思い、後白河上皇が「浄土宗」の一門の陰茎を切断して斬首してしまった事件が起きている。この専修念仏の事件をきっかけに「親鸞」は「浄土宗」を発展させ、専修念仏を不要としたのかもしれない。

しかしながら、江戸時代に発展した「浄土真宗」はまた、門徒による聞こえの良い抑揚のある曲節を付けた踊り念仏を広めてしまったため、人々を惑わす一向宗と呼ばれ、大規模な一揆に発展してしまっている。法整備がなされた現代であれば、国家転覆を計った新興宗教として、解散を命じられていてもおかしくない。

「浄土宗」の専修念仏は、他宗派から異端とされ、「天台宗」の比叡山延暦寺や奈良県(大和)の興福寺などと対立していた。「法然」や「親鸞」が流罪となり、のちの時代の「浄土真宗」の「蓮如」は大谷本願寺を破壊され、それぞれが各地を転々とすることになった。
「浄土真宗」の開祖の「親鸞」は、聖徳太子が夢に降りてきたことにより、浄土宗の法然からの教えを発展させ、修行や般若心経を唱える必要は無いと説き、禁止されていた五戒や結婚、髪形も自由とされた。そのため「親鸞」は修行をするための本格的な寺院などの拠点を必要とせず、街中に道場を作り布教活動を行った。流罪などにより各地に追われた門徒は、関東や北陸などで布教活動を行ったため、16世紀以降、蓮如の頃から次第に拡がり始めた。いち早く僧侶の結婚を禁止しなかったため、門徒の一族による布教活動に繋がり、全国一の信者数となった。他の多くの仏教系の僧侶の結婚は、明治以降まで許されなかった。

●承元の法難
1207年後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる事件。
1206年後鳥羽上皇の熊野御幸の間に安楽房遵西と住蓮が鹿ヶ谷で開いた別時念仏会に院の女房らが参加した。彼女たちは安楽房の説法を聞くために彼らを後白河上皇不在の御所に招き入れ、夜遅くなったからとしてそのまま御所に泊めたしまい、その彼女らの2名が出家をする者まで出てしまった。
遵西は、音楽的才能に恵まれ、住蓮は美声の持ち主で、六時礼讃に曲節をつけて念仏の信者たちに合唱させ、専修念仏の普及に大きな役割を果たした。1205年興福寺の僧徒から『興福寺奏状』をもって専修念仏停止の訴えがあった際、行空とともに非難の的となり、1207年後鳥羽上皇の女房たちが遵西達に感化されて出奔同然に出家した件等で罪に問われ、羅切(陰茎切断)の上、弟子とともに斬首刑に処せられた。
後白河上皇の専修念仏の停止と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる事件が起きた。

●法然
1133−1212年、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、後に日本浄土宗の宗祖と仰がれた。法然は房号で、諱は源空げんくう、幼名を勢至丸、通称は黒谷上人、吉水上人とも。

●知恩院
京都市東山区林下町にある浄土宗の総本山の寺院。山号は華頂山。本尊は法然上人像(御影堂)および阿弥陀如来像(阿弥陀堂)。開山は法然である。正式呼称は華頂山知恩教院大谷寺。

●親鸞
1173−1263年、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。親鸞聖人と尊称され、鎌倉仏教の一つ、浄土真宗の宗祖とされる。
法然を本師と仰いでから生涯に亘り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教えを継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。その中で宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。1207年後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる。

●西本願寺
京都市下京区本願寺門前町にある浄土真宗本願寺派の本山の寺院。山号は龍谷山。本尊は阿弥陀如来。正式名称は龍谷山本願寺、宗教法人としての名称は本願寺である。本願寺住職は浄土真宗本願寺派門主を兼務する。真宗大谷派の本山である東本願寺(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。京都市民からはお西さんの愛称でも親しまれている。
1272年親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建された。その後、比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、1591年浄土真宗本願寺派法主で本願寺11世の顕如は、豊臣秀吉により新たに寺地の寄進を受け、本願寺を大坂天満から京都堀川六条に移転させた。宗祖親鸞の廟堂は、1603年に東山五条坂西大谷に移り、現在「大谷本廟」となっている。

●東本願寺
京都市下京区にある真宗大谷派の本山の寺院。山号はなし。本尊は阿弥陀如来。正式名称は真宗本廟である。東本願寺の名は通称であり、西本願寺(龍谷山本願寺)に対して東に位置することに由来している。愛称は「お東」「お東さん」。1602年後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から、豊臣秀吉の命により本願寺の寺内で隠居所(御影堂と阿弥陀堂もあり)を設けて、北方に隠居させられていた教如(顕如の長男)へ烏丸七条に寺領が寄進された。これにより本願寺は正式に准如(顕如の三男)の西(本願寺派)と、新たに分派してできた教如の東(大谷派)に分立した。

●蓮如
1415−1499年、室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首。大谷本願寺住職。諱は兼壽。院号は信證院。法印権大僧都。本願寺中興の祖。同宗旨では、蓮如上人と尊称される。1882年(明治15年)に、明治天皇より慧燈大師の諡号を追贈されている。しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。真宗大谷派では「蓮如」と表記するのが正式である。父は第7世存如。公家の広橋兼郷の猶子。第9世実如は5男。子に順如、蓮淳など。
親鸞の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。

●山科本願寺
京都市山科区にあった浄土真宗の寺院。本願寺第8世法主蓮如により、1483年に完成・建立。南側には興正寺も建てられていた。周囲には堀と土塁を築いて、寺内町を形成していた。1532年六角氏と法華宗徒により焼き討ちされた。現在、跡地には浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の山科別院(西別院と東別院とある)が建っており、南殿跡が大谷派の光照寺に、土塁跡が山科中央公園にある。南殿跡と土塁跡は2002年、国の史跡に指定されている。

●石山本願寺
戦国時代初期から安土桃山時代にかけて摂津国東成郡生玉荘大坂にあった浄土真宗の寺院。蓮如は1489年に法主を実如に譲り、自身は山科本願寺の南殿に隠居した。しかし、布教活動は引き続き盛んに行い、大坂周辺へも年に何回か行き来し、1496年に坊舎(大坂御堂)の建設が開始され、これが後に石山本願寺となった。1533年に本願寺教団の本山となって以後発展し、戦国の一大勢力となったが、織田信長との抗争(石山合戦)の末、1580年に顕如が明け渡し、その直後に焼失した。
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風来坊

風来坊

人間は通り過ぎる旅人、刹那の流星である。

—— 風来坊

二度も深センを訪れたというのに、私はそこについて一篇文章も書けない。おそらくは、深センには歴史の深みが感じられず、どこへ行っても新しい建築ばかりで、ここ40年ほどの歴史しかなく、私に筆を執らせるきっかけがないからだろう。

人の想像力はすべて、何か実物に依拠する必要がある。そびえ立つこの滕王閣のように、1300年の歴史があり、20回以上再建され、今もなお存在している。もし王勃のこの序文がなければ、誰が滕王・李元婴(りえいげん)のことを覚えていようか?誰が千年の時を経て、20回以上もそれを再建しようと思わなかっただろうか。

滕王もまた、「滕王閣序」の名声によって歴史に名を残したに過ぎない。それは丁度、李白の友人の汪倫(おうりん)や、蘇軾の友人の張懐民(ちょうかいみん)のように、たまたま真の大才を持つ人物と知り合い、歴史に選ばれて千年の時を流れていくのであり、実際には彼ら自身が大きな努力を払う必要はなかったのである。

南昌はそれほど目立つ都市ではないが、王勃という一人の人物によって、いくばくかの風情が添えられ、歴史の重厚さを帯びるようになった。それが私に、いくばくかの文章を書かせるのである。

私は服一枚を洗ったが、一週間経ってもまだ完全には乾かない。これが江西の春の姿だ。晴れ間は貴重であり、少しでも日が射せば、南昌の町中の至る所——大通りも路地も、壁も——いたる所に干された衣服が溢れんばかりになる。公園にも、通りにも、壁にも、目に入るものすべてがそうだ。私はこんな光景に驚き、これまで訪れた都市の中でも独特のものだと思った。

歴史に名を残すことと、現世での気ままな生き方は、両立するのが難しい。王勃は大いなる才能を持っていたが、若くして世を去り、27歳で溺死した。蘇軾は生涯にわたって左遷され、転々と流離した。李白は晚年に投獄され、夜郎(ヤロウ)に流罪となった。

「胜地は常ではなく、盛筵も再び難し」——蘭亭での宴集はすでに過ぎ去った跡となり、滕王閣の李元婴は今、どこにいるというのか。人は歴史の前には白骨と化し、建築は歴史の前には廃墟と化す。

悲劇は永遠であり、別れは常態であり、苦難は長く存続し、歓喜は一瞬である。

王勃は流星の如く、歴史の長い空を駆け抜け、一瞬で消え去った。幸いにも一編の文章を残し、彼に代わって時空を超えさせている。我々は皆小人物に過ぎず、この世を一度通り過ぎるのであって、主ではなく客なのだ。最後には皆、黄土と化し、白茫茫とした大地の上に何もかも失った状態で残される。ただ眼前の贛江(かんこう)の水だけが、永遠に流れ続けている。
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