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カズ

カズ

何県出身じゃ〜?

何県出身じゃ〜?

回答数 27212>>

滋賀県高島市新旭町です。
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さか

さか

てか京滋の2部の使う球場、刺さる人には刺さるやろこれ
伏見桃山、黄檗、近江八幡、今津、新旭、草津グリーンとかマニア大歓喜やな
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ウー

ウー

#滋賀 #ビワイチ
大津京、比叡山坂本、堅田、近江舞子、北小松、近江高島、安曇川、新旭、近江今津
そして近江今津の電車切り離しで置いていかれるとこだった[びっくり]危ねぇ
滋賀電車でGO🚃
滋賀電車でGO🚃
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滋賀県で遊ぼうの星滋賀県で遊ぼうの星
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🌴たかし⛺

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とりとめのない話し(その45)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その5)

戦国時代の終わりに「近江商人」の「高島地区」は大溝城が廃城となり、「日野地区」は日野城が廃城となり、城下町が衰退していく中で、関東や東北に活路を見いだしていた。

●高島地区
鎌倉時代から室町時代に「高島地区」では「五箇商人」の1つである高島郡安曇川町南市村の「高島南市」と言われた地域で商いを始め、1576年織田信澄が大溝城を築城の際、東北や北海道と商取引をしていた商人を連れてきたことにより発展した。1595年頃、廃城により城下町は衰退していくが、北海道や東北に活路を見いだし、各地を転々とする行商として、発展した。

●飯田 新七
1803年 - 1874年、江戸時代後期の商人。近江商人飯田家の婿養子となり、髙島屋・高島飯田の礎を築いた。
新七は、1803年越前国敦賀(現福井県敦賀市)中野宗兵衛の子として生まれ、幼名を鉄次郎と言い、1814年京に出呉服商角田呉服店に丁稚奉公するにおいて、名を新七とした。
近江国高島郡南新保村(現滋賀県高島市今津町南新保)の出身の飯田儀兵衛は、京都烏丸松原上ル(現京都市下京区)において米穀商『高島屋』を営んでいた。子供は娘「秀」一人であった儀兵衛は、京三条大橋東入ル(現京都市東山区)の角田呉服店の奉公人新七の仕事振りに感心し、角田呉服店が倒産したのを契機に1828年新七を娘婿として迎え入れた。
1851年一人娘「歌」に京寺町今出川の上田七右衛門の次男新太郎(幼名直次郎)を婿として迎え入れ、1852年新七は隠居し、新太郎が2代目飯田新七を襲名した。新七は1870年4月高辻烏丸西入ルに隠居所を新たに設け『餘慶堂』と命名した。明治7年(1874年)7月29日初代新七は死去した。古着商『高島屋』からは、現代百貨店『高島屋』、商社『高島飯田』(後に丸紅と合併し、丸紅飯田(現丸紅))へと繋がる。

●大溝城
滋賀県高島市にあった日本の城。別名は高島城。鴻溝城、鴻湖城とも称された。大溝城跡は高島市の史跡に指定されている。そのほか2015年(平成27年)に、国の重要文化的景観に選定された「大溝の水辺景観」の重要な構成要素として、大溝城跡や旧城下地区などが含まれる。「大溝の水辺景観」は、「日本遺産」に認定された「琵琶湖とその水辺景観 - 祈りと暮らしの水遺産」の構成文化財に選定されている。

織田信長により1576年に安土城(近江八幡市安土町)が築かれると、1578年、新庄城(高島市新旭町新庄)に居城し、高島郡を与えた信長の甥、織田信澄に対岸約18kmの大溝に築城させた。大溝城の築城により、信長の安土城のほか、明智光秀による坂本城、羽柴秀吉による長浜城とともに琵琶湖の四方に城を配置することで、近江の水運、琵琶湖の制海権を掌握した。1595年頃に廃城となる。

●日野地区
蒲生氏の1533年築城の日野城の城下町で、「日野商人」の多くは医薬品や漆器、酒造を営んでいた。そして、1584年蒲生氏郷(28歳)が南伊勢に移封により松阪の城下町で「伊勢商人」として発展する。1590年(34歳)陸奥国への移封により若松城で「会津商人」として栄えた。
また、その後、1590年息子の蒲生秀行が陸奥国から宇都宮へ移封され、宇都宮城の城下町でも栄えた。宇都宮の城下町に「日野商人」を連れ、宇都宮に日野町を形成した。「日野商人」の流れをくむ多くの企業は関東で漆器や酒造を営んでいる。

●蒲生 氏郷
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松坂城主、最後に陸奥黒川城主。
蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀または教秀。キリシタン大名であり、洗礼名はレオン。子に蒲生秀行。織田信長に人質ながらも寵愛され、信長の娘である冬姫を娶る。信長死後には各地で功績を挙げ、秀吉からも重用された。最終的には会津藩92万石となり黒川城を与えられ、改築して若松城と名を改め、会津藩の基盤を築いた。また、千利休の弟子であり、利休七哲にも数えられる一流の茶人でもあった。

●日野城
滋賀県蒲生郡日野町にあった日本の城。蒲生定秀が1533年から3年ほどかけて日野の地に本格的に築城した。
蒲生氏は蒲生賢秀の代に織田信長の臣下となり、1582年本能寺の変が起こった時には、賢秀とその子蒲生氏郷は織田信長の妻妾一族をこの城に迎え入れた。
1584年蒲生氏郷は伊勢国松ヶ島12万石に移封し、その後田中吉政、長束正家と城代が入り、1600年関ヶ原の戦い以降廃城となった。
1620年市橋長政が中野城跡の一部に陣屋を構え仁正寺藩の陣屋として明治維新まで続いた。

●松坂城
三重県松阪市殿町にあった日本の城。現在は松阪城とも表記される。城跡は松坂城跡として国の史跡に指定されている。
1584年 - 近江国日野城6万石の蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ飯高郡松ヶ島城に入城した。
1588年 - 氏郷は、松ヶ島は伊勢湾に面し城下町の発展性がないと考え、現在の城地である飯高郡矢川庄の四五百森に新たに築城を開始した。工事は領内の寺社を取り壊して転用し、急ピッチで年内に完成させた。城は東に大手、南に搦手を配し、外郭に深田堀及び水堀を巡らせた。四五百森北峰に本丸を配し、その南側に二の丸が置かれた。本丸には3重5階の天守が構えられた。城下町建設にあたり松ヶ島住人を強制的に移住させ、旧領の近江商人を町の中心部に呼び寄せて日野町とし楽市楽座を設けた。また、湊町に伊勢大湊の豪商角屋氏を呼び寄せ、これにより商都松阪の礎が築かれた。
1590年 - 氏郷は小田原征伐の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て若松城に移った。

●若松城
福島県会津若松市追手町にあった日本の城。別名鶴ヶ城で、地元ではこの名で呼ばれることが多い。また、同名の城が他にあるため、会津若松城とも呼ばれる。さらに文献では黒川城や、会津城とされることもある。現在の天守等は復元であり、若松城跡として国の史跡に指定されている。
1589年蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にし、米沢城から本拠を移した。しかし、政宗は1590年に秀吉に臣従し、会津を召し上げられ、米沢城に本拠を戻した。
代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年より大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。
1598年氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封された。
翌1601年には蒲生秀行が再び入城したが、1627年嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封された。

●宇都宮城
は、栃木県宇都宮市本丸町にあった日本の城。関東七名城の一つ。江戸時代は宇都宮藩の藩庁となった。別名、亀ヶ岡城。
1598年3月、蒲生秀行が秀吉の命令で会津若松から宇都宮18万石で移封され、日野町や紺屋町を造成して宇都宮城下の商業整備を進めた。氏郷時代に蒲生氏は91万9300石の禄を得ていたが、氏郷が急死し跡を継いだ秀行がわずか13歳の幼少だったため東北の鎮守として91万石もの所領を支配するのは容易ではなく、重臣間の諍いがあって18万石に減封された。
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とりとめのない話し(その34)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良県、大阪府を順に紹介して来ました。次は滋賀県を紹介していきたい。

滋賀県は、現在、湖東、湖西、湖南、湖北の4つの地域に分類される。

・湖東エリアは、彦根市、東近江市、近江八幡市、竜王町、多賀町、日野町とされ、近江国の中でも、このエリアの商人が特に近江商人と言われ、繁栄した。このエリアの近江商人は、3つの地域に分けられている。

◯八幡商人
近江八幡市のエリアで、安土城、八幡山城などの城下町で織田信長による楽市・楽座により集まった商人たち。寝具メーカーの西川が有名。

◯日野商人
日野町のエリアで、蒲生氏の城下町で繁栄する。住友財閥、武田薬品などが有名。蒲生氏が伊勢に移封され、伊勢の松坂の城下町に集まった商人たちは伊勢商人と呼ばれている。三井財閥が有名。

○湖東商人
彦根市のエリア(日野町、近江八幡市を除く湖東)で、江戸時代、彦根藩の経済政策により繁栄した商人たち。トヨタグループ、西武グループ、伊藤忠商事、丸紅、日本生命保険などが有名。

・湖西エリアはマキノ町、今津町、朽木村、安曇川町、高島町、新旭町の5町1村が合併し、 高島市となった地域で、古くは500年頃の継体天皇の時代から高島の地名は登場している。弥生時代は安曇族、鎌倉時代は佐々木氏の流れをくむ高島氏は清水山城を本拠として繁栄し、戦国時代は織田信長の侵攻により津田信澄が大溝城を築城し、江戸時代は大溝藩が置かれ、朽木氏においては鎌倉時代から朽木谷の旗本として幕末まで繁栄した。

◯高島商人
湖西エリアで、戦国末期から江戸時代に東北地方へ行商に出ていた。呉服問屋からデパートを営む高島屋が有名。

・湖北エリアは長浜市・米原市とされ、特に長浜市は浅井長政の小谷城、豊臣秀吉の長浜城、浅井・朝倉連合軍と豊臣・徳川連合軍との姉川の戦いでよく知られている。

・湖南エリアは旧滋賀郡と旧栗太郡のエリアで、大津市・草津市・守山市・栗東市・野洲市・湖南市・甲賀市で構成され、さらに分類すると、大津エリア、草津・湖南エリア、甲賀・信楽エリアの3つの地域に分類される。

●草津・湖南エリア
大津市を除く旧栗太郡と甲賀市を除く旧甲賀郡(湖南市)のエリア(草津市・守山市・栗東市・野洲市・湖南市)で、栗東市にはJRAの栗東トレーニングセンターがある。

●甲賀・信楽エリア
湖南市を除く旧甲賀郡のエリア(甲賀市)で、甲賀町・水口町・土山町・甲南町・信楽町の合併し、甲賀市となった。

◯甲賀忍者
甲賀出身の忍者は旧甲賀郡甲賀町付近とされ、六角氏に仕えていたが、織田信長に敗退し、織田信長・豊臣秀吉側につくこととなった。
忍術屋敷は、一見普通の農家だが、内部には縄梯子、落とし穴、回転戸、地下道などが仕掛けられている。 甲賀市甲南町竜法師2331番地に、甲賀五十三家の筆頭格であった望月出雲守の元禄年間建築の旧居が甲賀流忍術屋敷として残る。
滋賀県甲賀市甲賀町隠岐に、1983年に開園した甲賀の里忍術村があり、村内に『萬川集海』著者として知られる藤林保武の一族の家を移築したからくり屋敷や甲賀忍術博物館などの資料館が点在する。
現存する甲賀流の忍術伝書は、藤林左武次保武の『萬川集海』(伊賀・甲賀49流派の集大成)、服部半蔵の『忍秘伝』(伊賀流・甲賀流の伝書)があり、三大忍術書の1つとされている。徳川家康側についた服部半蔵は伊賀出身の忍者とされる。

◯紫香楽宮跡
滋賀県南部、大戸川上流部において周囲を山で囲まれた小盆地である信楽(紫香楽)の地に位置する。現在、国の史跡は、宮町地区 (宮殿跡)、内裏野地区 (寺院跡)新宮神社地区(道路跡)、鍛冶屋敷地区(鋳造所跡)、北黄瀬地区(大井戸跡)の5つの遺跡からなる。奈良時代742-745年に聖武天皇により紫香楽宮が営まれ、総国分寺として甲賀寺(甲可寺)の造営が計画されたことで知られ、それらに関連する遺跡群とされる。1926年(大正15年)に内裏野地区が「紫香楽宮跡」の名称で国の史跡に指定され、その後に数次の追加指定が実施されている。

●大津エリア
瀬田川以西が旧滋賀郡、瀬田川以東の旧栗太郡の一部で、構成され、逢坂の関や瀬田の唐橋など、京の要衝の要として、度々歴史に登場することになる。天下人への近道のため、畿内地域を制することに翻弄し、天下人を目指す人々以西が近江国で覇権を争うことになる。
大津市の瀬田川以西の旧栗太郡のエリアは、瀬田の唐橋、瀬田城、石山寺、膳所城跡、大津城跡、近江大津京跡、近江神宮、宇佐山城、壺笠山城、坂本城、比叡山延暦寺、穴太衆の穴太、雄琴温泉、堅田衆の堅田と歴史的な名所が続く。

◯滋賀県の由来
廃藩置県により幕府直轄領の大津に大津代官所が出来、大津裁判所が出来、大津県となったが、大津県と長浜県を統合し、県庁所在地の滋賀郡から滋賀県と改名した。
滋賀の由来は、石の多い場所のことで、滋賀郡の地名になっていた。比叡山延暦寺や山城など、早くから石山を生かし、穴太の石垣築造職人たちが全国で活躍することとなり、穴太衆とよばれるようになった。

◯穴太衆
近江の比叡山山麓にある滋賀県大津市坂本穴太。延暦寺と日吉大社の門前町・坂本の近郊の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔。寺院の石工を任されていたが、高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになった。それ以降は江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られた。彼らは全国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施工するようになった。

◯雄琴温泉
滋賀県大津市苗鹿・雄琴にある温泉。最澄によって開かれたと伝えられる約1200年の歴史を持つ由緒ある温泉。滋賀県下最大の温泉地。風俗が盛んになるのは、昭和46年からで歴史的には浅い。

◯堅田衆
中世以後堅田荘には「堅田三方」(後に1つ増加して「堅田四方」となる)3つの惣組織が形成され、殿原衆(地侍)と全人衆(商工業者・周辺農民)からなる「堅田衆」による自治が行われており、「堅田湖族」とも呼ばれてもいた。殿原衆は堅田の水上交通に従事して堅田船と呼ばれる船団を保有して、時には海賊行為を行って他の琵琶湖沿岸都市を牽制しつつ、堅田衆の指導的な地位を確保していた。一方、全人衆の中には商工業によって富を得るものも多く、殿原衆との共存関係を築いてきた。

◯近江神宮(京阪坂本石山線 近江神宮前駅 徒歩6分)
667年に同天皇が飛鳥から遷都した近江大津宮の所在地と推定されている。1908年(明治41年)の大津市制施行10周年を契機として、天智天皇をゆかりの地である大津宮跡に祀ろうという運動が起こり、1938年(昭和13年)に昭和天皇の勅旨によって官幣大社「近江神宮」の創建が決定、直ちに社殿の造営が始められ、1940年(昭和15年)11月7日に鎮座した。又、近江神宮は、百人一首の最初の歌を詠んだ天智天皇を祀ることから、「かるたの聖地」とも呼ばれている。特に、競技かるたの日本一を決める「名人位・クイーン位決定戦」が毎年1月に行われることで知られている。競技かるたを題材にした人気漫画・アニメ「ちはやふる」の舞台としても知られている。

◯近江大津宮錦織遺跡(京阪坂本石山線 近江神宮前駅 徒歩1分)
西暦663年、日本は百済を救援するために挑戦半島に出兵します。
しかし、日本軍は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗し、日本は唐軍にいつ攻め入られるかという緊迫した状況を迎えます。
その情勢の下、西暦667年天智天皇によって飛鳥から近江への遷都が行われました。この近江に営まれた宮が大津宮です。
国の中心となった大津宮では、日本初の法令である「近江令」や全国にわたる最初の戸籍「庚午年籍」がつくられたほか、漏刻(水時計)を用いた時刻制度なども制定されました。
西暦671年に天智天皇が死去すると、翌年、皇位継承をめぐって大友皇子と大海人皇子との間に壬申の乱が起こります。この戦いに勝利した大海人皇子は再び飛鳥へ遷都したことから、ここ大津に都が置かれた期間はわずか5年でした。
大津宮の所在は長い間不明でしたが、昭和49年に錦織地区で実施された発掘調査で大津宮の建物の一部とみられる遺構が発見され、その所在が明らかになりました。
以降、周辺地域で発掘調査が実施され、内裏正殿、内裏南門、回廊、堀などの遺構が確認されるなど次第に大津宮の姿が明らかになりつつあります。
現在地は遺跡の北端に隣接しており、大津市が平成15年に全国で10番目となる古都保存法に基づく「古都」の指定を受けたことを記念し、大津宮を紹介するシンボル緑地として整備された。

◯瀬田の唐橋(京阪坂本石山線 唐橋前駅 徒歩3分)
京都の宇治橋、山崎橋と並ぶ日本三大橋(日本三名橋・日本三古橋)の1つ。近江八景の1つ「瀬田の夕照(勢田夕照)」として知られる。東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡るか南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。1889年(明治22年)まで、瀬田川に架かる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、交通の要衝かつ京都防衛上の重要地であり、古来「唐橋を制する者は天下を制す」といわれた。唐橋を舞台として繰り広げられた壬申の乱、寿永の乱、承久の乱、建武の乱など、橋は昔からさまざまな戦乱に合ってきた。そのため、何度も焼き落されたとされるが、その度に当時の浅瀬の位置に橋が架けられた。また、『日本書紀』など数多くの文献にこの地が登場する。
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