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マサヤス   龍之介

マサヤス 龍之介

Uber Jazz ♯ 43

 ☆『スイングジャズの花形ボーカリスト.18』
 
フランクシナトラがハリージェームス楽団を離れてその後任として就いたヴォーカリストはディック・ヘイムズだった。一説によるとシナトラを引き抜いたトミードーシーからの紹介でシナトラの後任としてハリーが迎入れたという記事も読んだが、この時代を知る音楽評論家の岩浪洋三氏の書く顛末の方がより具体的で説得力があるので、そちらの説を紹介する。シナトラ退団直後の或る日、ニューヨーク5番街でリハーサルをしていたハリー、楽譜出版社のラリー・シェインが若いソングライターを連れて楽譜の売込みに来たがハリーは、つまらない…と楽譜をその場で返した。しかし、そこでその曲を唄ったそのソングライターはハリーが声を気に入り話を聞くと、彼は有名なヴォーカルコーチのマーガライト・ヘイムズ女史の息子のディックだと判った。シナトラよりも若干低いバリトンだが高音域も易々と出せたのでハリーは採用することにした。タイプとしてはクロスビーの流れを汲むクルーナーだが男性らしい太いバリトンが魅力だった。1940年2月以降に録音を開始してヒットこそ逃したが当時の新曲♫ハウ・ハイ・ザ・ムーン や'38年にホーギー・カーマイクルの書いた新曲でこちらも未だに歌い継がれている♫ニアネス・オブ・ユー などをリリースしてバンド内の評判は軒並み良かった。因みに後者の楽曲は同年グレンミラーが吹き込みレイ・エバリーが唄い、其方らの方がヒットした。こうしてハリーの専属になったディックは約2年間在籍した。ディックヘイムズが加入した当初、つまり1940年のハリージェームス楽団はコロムビアを一時的に離れインディペンデント系のレーベル、ヴァーシティに移籍していた。これはその前年の1939年にビクターのプロデューサーだったエリ・オバスタインがビクターを退社してそのノウハウを持って廉価レーベルを立ち上げた。それが
VEARSITYレーベルだった。専属ミュージシャンはハリーの他にジャックTガーデンやフランキー・トラムバウアーなどもいた事がある。又、黒人の後のR &Bの先駆けとなったレス・ハイトも専属して彼の代表作♫T・ボーン・ブルース がリリースされた。結局1940年一杯ハリーはヴァーシティに専属したが満足する成果は挙げれず、1941年1月からは再びコロムビアに戻る。そしてこの第二次コロムビア期からハリーは一気にそれまでのジャズ色を払拭してストリングスを配してスイートで上品な楽曲へと路線転換してゆく。これが結果的にハリージェームスが売れるバンドへと導いていくキッカケとはなった。1941年に吹き込まれてヒットしたリムスキーコルサコフのクラシック楽曲
♫熊蜂の飛行 をハリーの巧みなtp.で推進してゆくレコードが好評だった。更に同じ日に録音された♫トランペット・ラプソディ もジャズイディオムを効かせたインストでハリーらしさを前面に押し出してよく売れた。ハリーは結局こうしたリーダー ハリージェームスの個性を全面に目立つ格好で成功したのだった。そんな折、ベニーグッドマンのバンドで人気を博した可憐なガールシンガーのヘレン・ワードがハリージェームスのバンドの1941年5月20日の録音にただ一度だけ付き合った。そしてこの日に録音された♫ユー・メイド・ミー・ラブ・ユー(あなたのとりこ) がハリージェームスの代表作となるほどのヒットを飛ばすことになる。本回はこのヘレン・ワードをフューチャーした♫ダディ をお聴き頂く。

GRAVITY

Daddy (05-20-41)

ハリー・ジェームス

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GRAVITY
GRAVITY28
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