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#仏教

フク

晦

nappi⚔️💎🇯🇲
唐の官僚、詩人。皇子や公主の師傅として功績があり、隠棲後も「師」の尊称を付けて呼ばれた。詩人としては「檸檬」「敗者」などの作品が知られる。
(民明書房刊『紅白歌大合戦』より)
※全て引用

ズン・ロン
フランチェスコ猊下がお隠れになった
と。
猊下と共に信仰に歩む皆様に、こころよりお祈り申し上げます。
(誤解のないように申し上げますが、わたしは宗教上の最高位にある方への尊称はすべて猊下にしています。ご理解ください)

麦SODA
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臼井優
サンスクリット語の《arhat(アルハット)》の音写「阿羅漢」の最終段階(果)であり、尊敬や施しを受けるに相応しい存在(応供)とされる。
阿羅漢果の概要と意味
定義: 仏道修行における最高位の一つ。迷いの輪廻から完全に脱した境地。
意味: 「尊敬されるべき聖者」という意味の尊称。
四向四果の最終段階: 原始仏教で説かれる修行の階位(四向四果)の中で、最後の4つ目の果報。
煩悩の消滅: 欲界だけでなく、色界・無色界に対する執着(五上分結:色貪、無色貪、掉挙、慢、無明)も消滅する。
特徴と補足
阿羅漢とブッダの違い: ブッダは自ら悟りを開いたが、阿羅漢は教えを聞いて悟りを開いた弟子(声聞)を指すことが多い。
出家と生活: 阿羅漢の段階になると、家庭生活や経済活動などのしがらみを営めなくなり、出家生活を求めるとされる。
他の表記: 阿羅漢、羅漢、応供。

またんぎ
(以下の検索結果を「資料」として使用します)
* Source 1.1: 北九州市八幡西区にある「皇后崎(こうごうざき)」という地名は、神功皇后が上陸した場所と伝えられ石碑が建つ。神功皇后は皇后崎に上陸後、岡田神社に参拝し、一宮神社に泊まり、船団を補強したとされる。
* Source 1.2: 岡田宮(北九州市)は、仲哀天皇と神功皇后の熊襲征圧の際に、両名を迎えた地である。岡県主の祖「熊鰐(くまわに)」が周芳の沙麼の浦に出迎えに行き、魚塩の地を献上し、海路を導いた。
* Source 1.3: 岡田宮(岡田神社)の由緒によれば、仲哀天皇8年(199年)、神功皇后は三韓征討の折に、崗県主祖・熊鰐の案内で熊手出岬(皇后崎)に到り、同宮に詣り「八所神」を親祭(自ら祭る)した。これを「岡田の三宮」と称する。祭神の右殿(熊手宮)には「県主熊鰐命」が祀られている。
* Source 2.3: 古事記によれば神武天皇が滞在した場所であるが、神功皇后も三韓征伐の折に熊手出岬(皇后崎)に到り、同宮に詣り八所神を親祭したとされる。
分析報告書
1. 抽出された事実(Fact)
* 所在地と名称: 岡田神社(岡田宮)は福岡県北九州市八幡西区岡田町に鎮座する(Source 1.3)。
* 上陸地点: 八幡西区の「皇后崎(こうごうざき)」あるいは「熊手出岬」は、神功皇后が上陸した場所と伝えられている(Source 1.1, 1.3)。
* 案内者: 神功皇后(および仲哀天皇)は、「岡県主(おかのあがたぬし)」の祖である「熊鰐(くまわに)」によって海路を導かれ、迎え入れられた(Source 1.2, 1.3)。
* 目的と行動:
* 神功皇后の訪問時期は、仲哀天皇8年(199年)の「熊襲征圧」または「三韓征討」の際である(Source 1.2, 1.3)。
* 神功皇后は岡田神社に参拝し、「八所神(はっしょしん)」を自ら祭った(親祭した)(Source 1.3)。
* この参拝の後、一宮神社に泊まり船団を補強したともされる(Source 1.1)。
* 祭神: 岡田神社の右殿(熊手宮)には、案内者である「県主熊鰐命(あがたぬしくまわにのみこと)」が祀られている(Source 1.3)。
* 呼称の由来: 神功皇后が八所神を親祭したことにより、この宮は「岡田の三宮」と称されるようになった(Source 1.3)。
2. 論理的推論(Logic)
* 資料1.1および1.3に基づき、北九州市八幡西区における神功皇后伝説の中核は、**「皇后崎への上陸」と「岡田神社での祭祀」**の2点にあることが示されている。
* 資料1.2および1.3に基づき、この伝説には地元の豪族である「熊鰐」が深く関与しており、彼が皇后を導いたことが、岡田神社に彼自身が祭神として祀られている理由となっている。
* 資料1.3に基づき、神功皇后の岡田神社における具体的な行動は「八所神の親祭」であり、これが神社の尊称(岡田の三宮)の起源となっているという因果関係が成立する。
3. 最終結論(Conclusion)
福岡県北九州市八幡西区にある岡田神社(岡田宮)と神功皇后伝説の関係は、以下の通りである。
* 伝説上の上陸・滞在地: 神功皇后は三韓征討(または熊襲征圧)の途上、同区内の「皇后崎(熊手出岬)」に上陸し、その足で岡田神社を訪れたとされる。
* 祭祀の実行: 皇后は同神社において、古代より祀られていた「八所神」を自ら祭り(親祭)、戦勝や航海の安全を祈願したとされる。この行為が由来となり、同社は「岡田の三宮」と称されるようになった。
* 地元豪族との結びつき: 皇后の訪問は、地元の県主の祖である「熊鰐(くまわに)」の手引きによるものであり、熊鰐は現在も同神社の祭神の一柱(右殿)として祀られている。
以上のことから、岡田神社は神功皇后が遠征の過程で重要な祭祀を行った場所として位置づけられ、その伝承は地名(皇后崎)や祭神(熊鰐)として現在に残されている。

臼井優
巨大な数の単位(仏教由来)
恒河沙(ごうがしゃ): ガンジス川の無数の砂。無限の量の例え。
阿僧祇(あそうぎ): 数えることができない、無数。
那由他(なゆた): 極めて大きな量。
不可思議(ふかしぎ): 仏の知恵のように、計り知れないほど大きい。
無量大数(むりょうたいすう): はかり知れないほど大きな数。
小さな時間の単位(仏教由来)
刹那(せつな): 仏教で極めて短い時間(指を弾く一瞬)。
弾指(だんし): 指を弾くこと。非常に短い時間の単位(10⁻¹⁷乗)。
須臾(しゅゆ): 非常に短い時間。
涅槃寂静(ねはんじゃくじょう): 悟りの境地。極小の時間の単位としても紹介されるが、文献的根拠に疑問の声も。
仏像などの数え方
尊(そん): 仏像を数える数え方(一尊、二尊)。お釈迦様の尊称「世尊」に由来。
体(たい): 仏壇の仏像を数える一般的な数え方(一体、二体)。
その他
劫(こう): 時間の単位。宇宙の誕生から消滅までの想像を絶する長い期間。
これらの単位は、単に数を表すだけでなく、仏教の世界観や思想、無限の概念を表現するために用いられてきました。

はのん
清涼寺(嵯峨釈迦堂)
しとしと雨のおかげでしっとりとした緑の苔に映える黄〜オレンジ〜赤への移りゆくグラデーションが見事でした
真赤に色づいたもみじの葉にしずくがキラキラ
落ちたてのフレッシュな散り紅葉もより鮮やか
境内のカフェ Bhagavanヴァガバァーン(お釈迦さまの尊称)で粕汁のランチをいただきました
ごろごろお野菜と豚肉がよく煮込んであってお味がようしゅんでます
ごはんはおいもさんのごはん
わらび餅までついてます
滋味深い優しいランチメニューでした
雨の京都の紅葉もええわぁ
思い切って来てよかったです
また紅い投稿続きます
すみませんっ
#京都 #雨の京都
#写真好きな人と繋がりたい
#GRAVITY写真部
#紅葉










🌴たかし⛺
とりとめのない話し(その62)
関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その22番外編)
「近江商人」は「浄土真宗」を信仰している人々が多いのが特徴的である。明治維新以降、商業の中心地が大坂に移ると御堂筋の北御堂と南御堂のある船場に「近江商人」が集まり、繊維問屋街と発展していった。
「天台宗」は修行により開け、「浄土宗」は専修念仏により開かれるとされたが、その念仏により現代にも類似するような面白い事件が1207年の鎌倉時代にも起きていた。僧侶の美声や僧侶の抑揚のある聞こえの良い曲節により女房を寝取られたと思い、後白河上皇が「浄土宗」の一門の陰茎を切断して斬首してしまった事件が起きている。この専修念仏の事件をきっかけに「親鸞」は「浄土宗」を発展させ、専修念仏を不要としたのかもしれない。
しかしながら、江戸時代に発展した「浄土真宗」はまた、門徒による聞こえの良い抑揚のある曲節を付けた踊り念仏を広めてしまったため、人々を惑わす一向宗と呼ばれ、大規模な一揆に発展してしまっている。法整備がなされた現代であれば、国家転覆を計った新興宗教として、解散を命じられていてもおかしくない。
「浄土宗」の専修念仏は、他宗派から異端とされ、「天台宗」の比叡山延暦寺や奈良県(大和)の興福寺などと対立していた。「法然」や「親鸞」が流罪となり、のちの時代の「浄土真宗」の「蓮如」は大谷本願寺を破壊され、それぞれが各地を転々とすることになった。
「浄土真宗」の開祖の「親鸞」は、聖徳太子が夢に降りてきたことにより、浄土宗の法然からの教えを発展させ、修行や般若心経を唱える必要は無いと説き、禁止されていた五戒や結婚、髪形も自由とされた。そのため「親鸞」は修行をするための本格的な寺院などの拠点を必要とせず、街中に道場を作り布教活動を行った。流罪などにより各地に追われた門徒は、関東や北陸などで布教活動を行ったため、16世紀以降、蓮如の頃から次第に拡がり始めた。いち早く僧侶の結婚を禁止しなかったため、門徒の一族による布教活動に繋がり、全国一の信者数となった。他の多くの仏教系の僧侶の結婚は、明治以降まで許されなかった。
●承元の法難
1207年後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる事件。
1206年後鳥羽上皇の熊野御幸の間に安楽房遵西と住蓮が鹿ヶ谷で開いた別時念仏会に院の女房らが参加した。彼女たちは安楽房の説法を聞くために彼らを後白河上皇不在の御所に招き入れ、夜遅くなったからとしてそのまま御所に泊めたしまい、その彼女らの2名が出家をする者まで出てしまった。
遵西は、音楽的才能に恵まれ、住蓮は美声の持ち主で、六時礼讃に曲節をつけて念仏の信者たちに合唱させ、専修念仏の普及に大きな役割を果たした。1205年興福寺の僧徒から『興福寺奏状』をもって専修念仏停止の訴えがあった際、行空とともに非難の的となり、1207年後鳥羽上皇の女房たちが遵西達に感化されて出奔同然に出家した件等で罪に問われ、羅切(陰茎切断)の上、弟子とともに斬首刑に処せられた。
後白河上皇の専修念仏の停止と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる事件が起きた。
●法然
1133−1212年、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、後に日本浄土宗の宗祖と仰がれた。法然は房号で、諱は源空げんくう、幼名を勢至丸、通称は黒谷上人、吉水上人とも。
●知恩院
京都市東山区林下町にある浄土宗の総本山の寺院。山号は華頂山。本尊は法然上人像(御影堂)および阿弥陀如来像(阿弥陀堂)。開山は法然である。正式呼称は華頂山知恩教院大谷寺。
●親鸞
1173−1263年、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。親鸞聖人と尊称され、鎌倉仏教の一つ、浄土真宗の宗祖とされる。
法然を本師と仰いでから生涯に亘り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教えを継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。その中で宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。1207年後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる。
●西本願寺
京都市下京区本願寺門前町にある浄土真宗本願寺派の本山の寺院。山号は龍谷山。本尊は阿弥陀如来。正式名称は龍谷山本願寺、宗教法人としての名称は本願寺である。本願寺住職は浄土真宗本願寺派門主を兼務する。真宗大谷派の本山である東本願寺(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。京都市民からはお西さんの愛称でも親しまれている。
1272年親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建された。その後、比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、1591年浄土真宗本願寺派法主で本願寺11世の顕如は、豊臣秀吉により新たに寺地の寄進を受け、本願寺を大坂天満から京都堀川六条に移転させた。宗祖親鸞の廟堂は、1603年に東山五条坂西大谷に移り、現在「大谷本廟」となっている。
●東本願寺
京都市下京区にある真宗大谷派の本山の寺院。山号はなし。本尊は阿弥陀如来。正式名称は真宗本廟である。東本願寺の名は通称であり、西本願寺(龍谷山本願寺)に対して東に位置することに由来している。愛称は「お東」「お東さん」。1602年後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から、豊臣秀吉の命により本願寺の寺内で隠居所(御影堂と阿弥陀堂もあり)を設けて、北方に隠居させられていた教如(顕如の長男)へ烏丸七条に寺領が寄進された。これにより本願寺は正式に准如(顕如の三男)の西(本願寺派)と、新たに分派してできた教如の東(大谷派)に分立した。
●蓮如
1415−1499年、室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首。大谷本願寺住職。諱は兼壽。院号は信證院。法印権大僧都。本願寺中興の祖。同宗旨では、蓮如上人と尊称される。1882年(明治15年)に、明治天皇より慧燈大師の諡号を追贈されている。しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。真宗大谷派では「蓮如」と表記するのが正式である。父は第7世存如。公家の広橋兼郷の猶子。第9世実如は5男。子に順如、蓮淳など。
親鸞の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。
●山科本願寺
京都市山科区にあった浄土真宗の寺院。本願寺第8世法主蓮如により、1483年に完成・建立。南側には興正寺も建てられていた。周囲には堀と土塁を築いて、寺内町を形成していた。1532年六角氏と法華宗徒により焼き討ちされた。現在、跡地には浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の山科別院(西別院と東別院とある)が建っており、南殿跡が大谷派の光照寺に、土塁跡が山科中央公園にある。南殿跡と土塁跡は2002年、国の史跡に指定されている。
●石山本願寺
戦国時代初期から安土桃山時代にかけて摂津国東成郡生玉荘大坂にあった浄土真宗の寺院。蓮如は1489年に法主を実如に譲り、自身は山科本願寺の南殿に隠居した。しかし、布教活動は引き続き盛んに行い、大坂周辺へも年に何回か行き来し、1496年に坊舎(大坂御堂)の建設が開始され、これが後に石山本願寺となった。1533年に本願寺教団の本山となって以後発展し、戦国の一大勢力となったが、織田信長との抗争(石山合戦)の末、1580年に顕如が明け渡し、その直後に焼失した。









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臼井優
国立大学法学部卒 法律系国家資格3種保有 就職氷河期世代 元僧侶 趣味・特技 サッカー、バスケ、ボクシング、テコンドー、茶道、書道、華道、サックス、ドラム、読書、カフェ巡り、音楽鑑賞、ストレッチ、筋膜リリース、他人のデートコースを考えること 家庭教師、予備校講師、各大学でのエクステンション講座担当 担当科目・領域 小~高、文系科目全て、公務員試験全領域、面接、ES添削、マナー、論文添削等々
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nappi⚔️💎🇯🇲
𝐄𝐯𝐞𝐫𝐲𝐝𝐚𝐲二日酔い!
Nuff Nuff Respect! All a Di Massive & Crew
Big Up!!! 🍭
あ、イケおじで既婚者様です 🦈
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ズン・ロン
流れの事務員はやはり流れです。またどこかで事務をやろうと思いつつ、何か勉強しようかなと思案しています。
蔚然成風、目指すは和室でビーダーマイヤーを実現したいです。そして炊飯器で炊いた海南鶏飯を食べてくつろぎたいです。
目標:短歌毎日投稿
返事が忘れた頃にやってきます。
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はのん
若くないパート主婦 ❤常恋隊❤ 素敵!美味しそう!がんばれ!と思った投稿にいいね!してます ⚠DMしません フォロバは親しくなってから
誤字脱字の多いお年頃、クスリと笑って見過ごして
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またんぎ
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